85 つき神社・もり神社

 南海本線「七道しちどうえきから西に五百メートルほど歩くと、月洲神社があります。

月洲神社

 このあたりは、ほうえい元年(1704)に大和川が現在の川すじに付けかえられた後、川が運んできた土や砂がたまってできた土地でした。享保きょうほ2年(1728)、かわ内国ちのくに丹北郡油上村(現在の松原市)に住んでいた土橋弥五郎どばしやごろうさんたちは、ここを新田しんでんとして開発かいはつしようとしました。しかし、たびたび災害さいがいがおこって開発はなかなかすすみません。そこで、無事ぶじに開発が仕上がるようにとねがって、元文がんぶん2年(1737)、土橋さんは月洲神社を建てました。

 それ以後、天保てんぽう5年に、深井の大地主だった外山とやま定五郎さだごろうさんたちによって再建さいけんされ、この地域ちいきの人人の氏神うじがみさまとしてまつられてきています。

田守神社

 また、田守神社は、月洲神社からさらに600メートルほど西に行った、大和川の近くにあります。

 やはり、月洲神社と同じように大和川が付けかえられてから、土や砂がたまってできた土地です。このあたりの新田を開発しましたが、延享えんきょう2年(1745)に、その氏神様としてあまてらすおう大神みのかみをはじめとする多くの神様をまつったのがこの神社のはじまりとされています。その後、弘化こうか4年(1847)に社殿しゃでんがつくられて、人々に地域の神社として親しまれてきています。

田守神社力石

 この神社内には、「力石」とよばれる大小の丸い石が15ならべられています。大和川が運んできた土や砂でうまった川の底をほったり、つつみを高くしたりする重労働じゅうろうどうのくりかえしで、人々はたいへんでしたが、安全と災害さいがいける願いから、力石を持ち上げる競争きょうそう江戸えど時代じだいから行われてきています。

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