今回は、堺にも幕府があったというお話です。場所は顕本寺。フェニックス通りの宿院町東四丁交差点を南に入ったところに、顕本寺というお寺があります。ここに堺幕府が一時的におかれていたというのです。
戦国時代(1400年代後半~1500年代後半)、わが国は権力あらそいのために、各地で戦が行われており、家来が主人をたおしたり、兄弟や親族内でも争ったりしていました。大名で管領(現在の首相のように国を直接治めていた武将)だった細川高国が、大永7(1527)年に三好元長らと戦ってやぶれると、元長は細川晴元・足利義維(11代将軍の次男)をいただいて堺に入りました。おさなかった晴元を管領にした元長が権力をにぎりました。これが「堺幕府」の始まりです。
しかしその後、晴元と仲が悪くなると享禄2年(1529)に阿波の国(現在の徳島県)に帰りました。2年後には細川高国が晴元を攻撃し始めたので、現在の天王寺で元長は高国と戦って高国をたおしています。そして元長はふたたび堺幕府にもどりました。元長のいない間、堺幕府の実権をにぎっていた木沢長政との関係が悪くなっており、元長と長政とが戦うことになりました。負けそうになった長政は、本願寺の一向一揆の助けをうけて逆襲し、享禄5年に三好元長は顕本寺で自害したのです。
その後、三好氏と堺との関係は続き、元長の子どもの長慶は堺の後ろだてとなっています。また、長慶は、元長の菩提をとむらうために南宗寺を建てました。現在、この南宗寺には三好一族の墓があります。
また当時の顕本寺は、現在のところよりも少し北よりにありましたが、1615年の大坂夏の陣で焼けてしまい、後に現在のところに再建されました。
顕本寺といえばもう一つ、徳川時代にはやった歌謡のはじまりである隆達節ぶしをつくった高三隆達の墓もこのお寺にあります。