JR阪和線津久野駅から南東に15分ほど歩くと家原寺に出ます。そこから南へ下り、さらに台地を西に少し上りますと、小さなお堂が見えてきます。ここが和泉式部宮です。
和泉式部は、父越前守大江雅致と母越中守平保衡の娘との間に、西暦900年代の後半に生まれました。当時の女性には名前はなく、「だれそれの娘」として呼ばれていまた。では、なぜ、「和泉式部」と呼ばれているのでしょうか。
西暦995~999年の頃に、和泉守となった橘道貞と結婚をします。夫の橘道貞が和泉に赴任した時に、和泉式部も一緒に任地に来たようで、現在の平岡町の西の端の台地に住んでいたと言われています。夫の任地である「和泉」と、父親の官名の「式部」から「和泉式部」と呼ばれているのです。この二人の住まいと思われる所を和泉式部宮として残し、地域の方々に宮として整備され祀られているのです。
和泉式部は、先にも書きましたように、平安時代(794~1192年)の代表的な歌人で、小倉百人一首にもその歌が選ばれています。当時の第一級の歌人である紫式部も、「紫式部日記」の中で、和泉式部の歌を高く評価しています。しかし、夫道貞との仲が悪くなったおりに、冷泉上皇の皇子である爲尊親王と仲が良くなるなど、恋愛関係ではあまりいい評判を残しませんでした。百人一首に選ばれた「あらざらん この世のほかの 想い出に 今ひとたびの 逢う事もがな」でも、自分は大病で明日をも知れないが、今一度、想う人に逢いたいものだ、という歌を歌っているほどです。
また、道貞との間に生まれた小式部内侍も歌がうまく、
「大江山 いくのの道のとおければ まだふみもみず 天のはしだて」
の歌は、母とともに百人一首に選ばれています。カエルの子はカエルなんですね。