堺市立三宝小学校
〒590-0906 大阪府堺市堺区三宝町5丁286
1.地名「三宝」
右の地図は、「文久3年改正堺大絵図」の一部です。白い部分は、宝永元年(1704)に付け替えられた大和川に運ばれてきた多くの土砂で埋め立てられて、新田として開発された所です。宝暦年間(1751~64年)に三つの新田が開発されたところから、「三宝」という地名が生まれました。
1866年に堺市で生まれた河口慧海は、仏典を手に入れるため、鎖国をしていたチベットに向かいます。チベット語を学び、一人でヒマラヤを越えて4年後の1901年にラサの町に着き、学びながらたくさんのお経を集めました。日本人であることを見つかり殺されそうにもなりましたが、無事に日本に帰りました。七道駅前には、ヒマラヤを越える慧海の像が建っています。
1543年に種子島に伝わった鉄砲製造技術を、堺の商人・橘屋又三郎が堺に持ち帰り、鉄砲の製造を始めました。鉄砲ができるとそれを使う技術も重要で、堺では小濱民部丞嘉隆などの鉄砲師が試射場を設けて、射撃技術を教えました。その射撃場が、この碑の北にありました。碑も、そこの小丘に建てられていましたが、工場の建設で現在の地に移設されました。「鉄砲町」という町名もここから生まれています。
4.「放鳥銃定限記」石碑:鉄砲町
上の「鉄砲鍛冶射撃場」を設けて射撃技術を教えた小濱 嘉隆を顕彰する碑が、「放鳥銃定限記」です。1914年に運河の工事中にこの碑が発見されました。昭和19年に堺市に寄贈されザビエル公園に保存されていましたが、駅前の広場の整備に伴って、発見場所に近いところに移設されました。
5.月洲神社:南島町
この地は、大和川の付替えで誕生した土地ですが、1728年に河内の国に住んでいた土橋弥五郎さんが新田として開発しようとしました。しかし度々おこる災害のために開発は進まず、土橋さんは無事に開発が進むようにと1737年に月洲神社を建てました。その後の1834年に深井の大地主だった外山定五郎さんによって再建されました。
6.田守神社:松屋町
月洲神社の西側を開発していましたが、このあたりの氏神様として1745年に天照皇太神などをお祀りしたのがこの神社の始まりです。
この神社には「力石」と呼ばれる大小15個の丸い石が並べられています。大和川が運んできた土砂を取り除く重労働の繰り返しの中、安全と災害を避ける願いから、力石を持ち上げる競争が江戸時代から行われてきています。
7.昭和9年9月21日
室戸台風による風水害慰霊碑など
高知県室戸岬付近に上陸した台風は、最大瞬間風速など記録的な数値を出し、強風や高潮での被害は甚大なものとなりました。死者・行方不明者3036人を出しています。三宝小学校では校舎が倒壊し、児童55名、教師1名がなくなっています。
8.波切不動尊と水難供養碑:神南辺町
波切不動尊は、唐から帰る弘法大師を守ったと伝えられ、海難除けと難切りとをかけた信仰のものです。水難供養塔は、1791年の津波によって命を落とした人々の50回忌にあたる1840年に建てられた供養塔です。
1767年に小西一族の吉岡氏によって南島墓地に建立されました。一時行方不明になっていましたが、小西氏末裔の方により大和川堤防の南下の南島墓地の中に、埋没した墓石を発見されました。日の大和川拡張工事のために、1961年に鉢ヶ峯公園墓地内に移動動されました。現在は、外山公園 内に供養塔跡の石碑が残されています。左の写真は、蜂ヶ峯墓地に移動された「小西行長供養塔」です。これが、ここで発見されたのです。
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