堺市立榎小学校
大小路から榎元町を東へ抜けて、金岡神社の南側を通り、大泉緑地の南、そして松原、羽曳野から最後は飛鳥に向かう街道です。日本書紀の推古天皇21年(613)に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」とあり、我が国最古の官道です。また百舌鳥古墳群と古市古墳群とをもつなぐ道であったとも考えられています。
高野街道は、河内長野市から橋本市とを結ぶ街道で、各地から長野までを結んでいる道として「~街道」と呼ばれています。西高野街道は、平安時代後期から鎌倉時代始め頃には、高野山参詣道として賑わっていました。写真の「里程石」は、河内の茱萸木村の百姓小左衛門と五兵衛の発起で、1857年に建てられたと言われています。高野山まで13本建てられており、堺市内には、関茶屋にも「十二里石」が建っています。
現在はこの井戸しか残されていませんが、もとはとても広いお寺でした。743年に聖武天皇に命じられて、行基が創建したお寺です。1511年の戦で焼かれて少し西の市之町に移転しましたが、明治の廃仏毀釈でそれもなくなり、そこには木碑だけが残されています。方違神社には、「向泉寺」と書かれた大きな常夜灯が2基建っています。
4.永山古墳:東永山園
仁徳陵古墳の陪塚で、長さ100m、高さ10mほどの前方後円墳です。写真は前方部で中央環状線の工事で堀の一部が埋め立てられました。墳丘は宮内庁の管轄ですが、堀は堺市のものですので、こういうことが起こるのですね。築造時期は5世紀の前半頃と推定されています。
墳丘の長さは87m、前方部の幅が40mの前方後円墳です。1972年に前方部と堀が国の史跡指定を受けています。後円部は陪塚として宮内庁が管理しています。5世紀の中頃から後半にかけての築造と推定されています。
すぐ高野街道
左高野鉄道停車場
と掘られた道標です。中でも、「高野鉄道」と掘られているのが珍しく、南海高野線の前身の会社名がはっきり残されています。高野鉄道は明治31年に大小路駅(現・堺東駅)と狭山駅間を結んで開通し、3か月後に長野駅まで延伸しています。この道標は、高野鉄道開通の年の10月に設置されており、乗客を呼び込む役割も果たしていたのかもしれません。
竹内街道と西高野街道との接点付近に建てられています。1648年に、夢幻永海という僧が勧進し建立されたもので、道を行き交う多くの人たちの良縁を結びたいとして建てられた旨を記したものが、塔の内部から見つかりました。江戸時代の交通の要所であったことからも、旅人の道中の無事を祈る人たちの信仰を集めてきたようです。
なお、この塔の西側、高野線の踏切の西横にも小さな宝筐印塔(右の写真)と思われるものがお地蔵さんとともに建てられており、当時の人々の厚い思いが伝わってきます。
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