新湊小校区の史跡

 

堺市立新湊小学校

〒590-0835 大阪府堺市堺区西湊町6丁6−1

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1.船待神社:西湊町

 菅原道真が太宰府に流されるときに、この浜から船に乗ったのです。船を待つ間、この神社にお参りをして松の木を植えたそうです。1002年に道真の子孫の菅原為紀がこの地に来て、道真が残したものを調べ、この神社に道真をお祀りをしました。その際に「船待神社」という名前を付けられたのです。

2.菅公腰掛石(船待神社):西湊町

 昭和40年頃に、道真が植えた松の木が枯れてきたので取り除いたところ、石が見つかりました。道真が船を待つ間休んだ石だということで「菅公腰掛石」として保存されています。

 

3.大内義弘の墓(本行寺):西湊町

 室町時代の守護大名で、足利義満の勢力強化に協力をしていました。しかし義満が金閣を建立したり、弟が戦死した際に恩賞が少なかったりなどから、義弘は義満への不満が高まり、1399年に挙兵(応永の乱)して堺に上陸しました。義満は話し合おうとしましたが、義弘は拒否して堺の町にこもり、結局、義弘は堺で討ち死にしました。

 

 

 

4.紀州街道

 江戸時代、参勤交代のために街道が整備されました。紀州の徳川家の参勤交代で使う街道は、紀州街道です。「まりと殿様」の童謡で歌われている紀州の殿様が通っているのです。堺市内で昔の面影が一番残されているのは、この新湊小校区の紀州街道です。

5.風車の跡:西湊町

 大正時代末、畑にやる水を井戸から汲み上げるのが大変でした。楽に水を汲み上げるためにオランダの風車をヒントに地元の人が風車を考案しました。風車が海風を受けて井戸水を汲みあげて、水を横のため池にためて底抜け丹吾で潅水できるようになり、仕事はかなり楽になりました。

 

6.片桐棲龍堂庭園:西湊町

 江戸時代後期建築の漢方薬の老舗です。そこの庭園は築山、枯滝、枯流れを配した奥山の景色の中につくられた庭園で、江戸時代後期の茶庭として、歴史的にもとても貴重な庭園で、堺市の指定文化財の名勝に指定されています。また、建物は国の登録有形文化財です。

 

 

7.「はとぶえ発祥の地」石碑:東湊町

 1950年、湊小学校の別所やそじ先生は4年生の担任でした。当時は食べる物も着る物も不自由で、夕食中でもよく停電になりました。それでも子どもの心だけは明るく豊かであってほしいと願い、昭和26年1月、詩を書く指導を始められました。5月に有志の先生方と「児童同好会」を結成し、児童の作品を募集しました。全市28小学校の内9校から応募がありました。7月の終わり頃、児童詩集を発行しましたが、まだ名前がなく、詩人の安西冬衛氏に「はとぶえ」と名前をつけてもらっています。

 その後、全市の小学校に広がり、2014年10月号で通算758号となっています。

 湊西小学校と統合したために「湊小学校」の名前はなくなりましたが、はとぶえ発行50周年を記念して2001年に旧湊小学校敷地に、「はとぶえ発祥の地」の石碑が建てられました。

 

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