南海高野線堺東駅をおりて堺市役所の前から、南海本線堺駅に向かって歩きましょう。合同庁舎や郵便局、阪神高速道路の下をくぐって熊野小学校とつづきます。この道が「大小路筋」です。
もともとは「大小路」といって、北の摂津国住吉郡堺北荘と南の和泉国大鳥郡堺南荘との境になっている道でした。堺の街は摂津と和泉との二つの国からできていました。しかも道の東のはしは、現在の阪神高速道路まででした。かつてはそこに土居川が流れており、そこから東は堺ではありませんし、大小路筋の東は竹内街道と西高野街道につながっていて、奈良の飛鳥や高野山にむすばれていました。当時の大小路筋は、9メートルはばの堺の街のメインストリートだったのです。
ただし、1615年の大坂夏の陣で丸焼けになる前の堺では、この道は阪堺電車「大小路」停りゅう所付近から真東にのびていて、長尾街道とつながっていたようです。
この道のすぐ南にある開口神社の古い文書(1416年)の中に「おう小路」の名前があることからも、そのころにはすでに「大小路」の名前でよばれていたことがわかります。堺が一番さかえていた自治都市のころには、大小路をはさんで天王寺屋や紅屋などの豪商がならんでいて、堺でも一番にぎやかなところだったようです。
また、この大小路と大道(阪堺電車の通っている道)との交差点は、平安時代(794~1192年)の陰陽師安倍晴明が占い書きを埋めた所とされていて、占辻や晴明辻とよばれていました。ここで占いをすればかならず当たったといわれています。
写真の石碑は、北堺警察署の北東のかどに立てられていますが、側を通る人たちも気にせずに通りすぎているだけです。