94 三好みよし一族いちぞくかいせん政所まんどころあと

 南海なんかい本線ほんせん七道しちどう」駅から内川にそって南へ二百メートル歩くと、川の東側の角に小さな石碑せきひが見えてきます。ここが海船政所跡です。

海船館址

 阿波あわのくに(現在の徳島県とくしまけん)の大名の三好みよし長輝ながてるは、細川ほそかわ澄元すみもとを助けて足利あしかが幕府ばくふ管領かんれい(現在の首相しゅしょうのように政治せいじを行っていた)にしました。自分は澄元を支えるようにして実権じっけんをにぎりました。当時の都だった京都に近くて、自分の国の阿波にわたるのにちょうどよい場所として、堺にやかたてることを計画して、えいしょう元年(1504)、海の見えるかい船町せんちょうで工事を始めました。この碑の建っているところから西側は当時は海だったので、ちょうど海の側に館を建てたのです。

海船政所跡

 完成したのはまごの三好もとながの時代で、大永だいえい元年(1521)に政所としてみとめられました。政所というのは、政治を行う役所なので、ちょうど京都の幕府の出張所のようなところだったのでしょう。大きさは、東西が約650メートル、南北はそのばいあったといわれており、桜之さくらのちょう西三丁付近が中心で、錦之にしきのちょう西あたりまでひろがっていたようです。三好元長といえば、かつても書きましたが、さかい幕府ばくふを開いた武将ぶしょうですね。この時代は、三好一族のもっといきおいのさかんな時代だったのでしょう。

三好一族の墓:南宗寺

 当時の館には中央に高い矢倉やぐらをつくり、そこから四方を監視かんししていました。どこかで何事かがおこるとかね太鼓たいこらして一族に知らせたようです。武器ぶきもたくさんそなえられていました。また、摂津せっつ和泉いずみ岸和田きしわだ河内かわちなどのしろに兵をおいていましたが、それらの城をまとめる本城の役目をしていたのでしょう。

 

 

三好長慶座像:南宗寺

 元長がなくなった後は、長慶ながよしよしおきよしつぐの三代までもこの館に住み、堺の町を三好一族の力がおよぶところにしていたのです。

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