浜寺小校区の史跡

 

 

堺市立浜寺小学校

〒592-8349 大阪府堺市西区浜寺諏訪森町東2−163

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1.地名「船尾」

 応神天皇の母である神功皇后が朝鮮に出兵をして新羅を攻めたことが日本書紀に書かれています。勝って多くの船を率いて帰ってきた時に、船団の最後の船を止めたところが、「船尾」と呼ばれるようになりました。ちなみに、船団の先頭の船の舳先を松の木につないだので、そこが「舳松」という地名になったのです。

2.三光川:浜寺諏訪森町・浜寺船尾町

 南北朝時代の頃、三光国師が高師の浜のあたりに「大雄寺」という寺を建てました。吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対して、この寺を「浜の寺」と呼び、「浜寺」という地名になりました。この地での三光国師のかかわりから、「三光川」やそれにかかる橋に「三光橋」という名が付けられています。

 

 

 

 

 

3.三光松の碑:浜寺諏訪森町西

 この碑には、このあたりは三光国師が開いた「大雄寺」が建てられていたところなので、ここに立っていた松を「三光松」と名付けた旨が書かれています。でも大雄寺そのものは、現在の高石市あたりにあったのではないかと推定されており、南海電鉄高師の浜線の伽羅橋駅前に、「大雄寺」の石碑が建てられています。

 なお、吉野の後醍醐天皇は、三光国師に帰依して戒法を受けています。浜寺が南朝方の由縁です。

 

 

4.連歌橋:浜寺諏訪森町東

 明治時代に架けられた橋ですが、当時の小字名が「連歌田」だったそうです。三光国師が建てた大雄寺にかかわって、連 歌を行うための費用にあてるために寄進した免田がこの「連歌田」のようです。やはりここにも三光国師がからんできます。ここから「連歌橋」の名が生まれたのでしょう。2,3年前に新しい橋に架けかえられてしまい、現在は平成の橋になっています。

5.諏訪ノ森駅舎:浜寺諏訪森町西

 1907年に開業したこの駅は、船尾村の村社であった「諏訪神社」から名づけられています。白砂青松の松林から、かなたに臨む淡路島までの5枚のステンドグラスがはめこまれています。1998年には、となりの浜寺公園駅舎とともに国の登録有形文化財となっており、2003年には、近畿の駅百選にも選ばれています。

 



※三光会館の塀の壁画(諏訪ノ森駅舎とステンドグラス)

6. 地名「浜寺」

 南北朝時代に、後醍醐天皇がこもる吉野にあった「日雄寺」対して、浜に「大雄寺」があり、吉野の山の寺に対してこれを「浜の寺」と呼んだのが始まりです。吉野から上げた狼煙をこの大雄寺で受けたのです。大雄寺は現在の高石市にあったといわれていますが、「浜寺」という地名は、石津川付近から高石市あたりまでを呼んだようです。そこでこのあたりの地名には「浜寺」が冠されています。

7.北畠きたばたけ顕家あきいえ供養塔:浜寺石津町中

 南朝方の武将であった北畠顕家は、1336年に、後醍醐天 皇を追い落とすために足利尊氏の挙兵に対して立ち向かった武将です。一度は尊氏を九州まで敗走させましたが、再び尊氏が京に戻ってきたので、顕家も戦いました。最後石津川の戦いで戦死しています。弱冠20歳の若さです。

 

8.行家の松の碑:浜寺石津町中

 表に「南無阿弥陀仏」と彫られ、裏に「行家」と彫られた石碑です。行家は源為朝の弟で、義経の伯父にあたります。頼朝による平家討伐後、義経と共にあり、頼朝に攻められて1186年に捕えられ斬首されます。が、ここにあった松は行家のではなく顕家のものだったようで、後の人の間違いで「行家」の名が刻まれたようです。

9.諏訪神社:浜寺諏訪森町東

 昔は1900㎡の境内をもった神社でした。仏教伝来以降、九頭龍像を祀っていましたが、参拝する人もいなくなりました。明治の神仏分離により、石津太神社に合祀されましたが、1949年に、新たに祭神を迎えて氏神神社としてお祀りしました。

 

 

 

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