堺市立上神谷小学校
〒590-0121 大阪府堺市南区片蔵1425
1.桜井神社拝殿:片蔵
堺市内で唯一の国宝の建造物です。この桜井神社の拝殿は、鎌倉時代前半に造られたものだと考えられています。中央の 開いているところは「馬道」という土間の通り抜けになっています。こういう様式の拝殿を「割り拝殿」といい、他所で見かける神社の拝殿とはまるで様式が異なっています。この馬道の奥に神様を拝むところがあります。
また、この馬道の両側にあるしとみ戸を中央に下ろすと馬道の両側の部屋とつながり、広い板の間ができあがります(下の写真)。七五三などの行事がある時には、広い板の間でお参りをして神主さんからお祓いを受けることができます。
2.こおどり(桜井神社)
毎年10月の第一日曜日に「こおどり」が奉納されます。これは、雨乞いのおどりで、ヒメコと呼ばれる魔除けの紙をさした竹かごを背負った2人の鬼や、棒を持った4人の天狗たちなど17人の踊り手たちが、道歌を歌いながらこの神社に奉納にやってくるのです。これは、国選択・大阪府無形文化財になっています。
もともとは、鉢ヶ峯の法道寺の向かい側にあった「国神社」の灯籠が桜井神社に置かれています。国神社は、1910年に桜井神社に合祀され、この灯籠 も移されました。この灯籠には「応永19年3月17日勧進良秀」の銘文があり、1412年に奉納されたことが分かります。現在、大阪府有形文化財に指定されています。また、「こおどり」も、もとは国神社に奉納されていたものでしたが、合祀と同時に桜井神社にうつっています。
4.法道寺:鉢ケ峯寺
670年に法道上人が開いたお寺で、49もの子因があった大きなお寺でした。しかし豊臣秀吉に焼かれてからさびれていきました。現在残っている建物は、多宝塔と食堂だけです。多宝塔は室町時代の初め頃に、食堂は鎌倉時代後半に建てられたもので、共に国の重要文化財に指定されています。「鉢ヶ峯」という地名は、法道上人が大切にしていた鉢を埋めたことから名づけられたものです。
5.小谷城址:豊田
源頼朝が平氏を滅ぼした時に、平清盛の義母の池禅尼の実子頼盛と子孫だけは京に住まわせました。京にいづらくなった 頼盛は若松荘に地頭として赴任します。その子孫平政有が小谷城を完成させました。南北朝時代に千早城であげた南朝方の狼煙を小谷城で受け、浜の寺(大雄寺)にさらに狼煙を送っています。1575年に織田信長に攻められて落ちてしまっています。
6.小谷城郷土館(東小谷家):豊田
小谷家の子孫が2軒の小谷家を残しています。1つは、小谷城郷土館として開放されています。ここは、先代の方明さん が須恵器や古瓦、民俗資料、火縄銃、具足などの実物資料を収集されたものなどが展示されています。門は伯太藩からの拝領で、他の建物とともに堺市の登録有形文化財になっています。
7.小谷家住宅(西小谷家):豊田
もう1軒の小谷家です。小谷家の子孫が江戸時代の初めごろに、城址に邸宅を建て、豊田村の庄屋などを務めています。門の前には「小谷殿 古城之跡」と彫られた石碑がたっていますが、かつては「小谷城址」といえば、こちらの住宅をさしていました。現在、国の登録有形重要文化財の申請をしているところです。
8.妙見山感応寺:富蔵
日蓮宗の寺院で、「上神谷の妙見さん」と呼ばれています。この地で北辰尊星の霊示を受けた唐の法道上人が刻まれた妙見大菩薩像が安置された霊場です。能勢の妙見、星田の妙見とともに、大阪の三大妙見といわれています。
9.地名「富蔵」「片蔵」「釜室」「岩室」
この地は、須恵器の一大生産地でした。ここでつくられた須恵器が各地に運ばれていったのです。この地名にある「蔵」「室」は、ほら穴のようなところに焼かれた須恵器を一時保存しておいたところだそうです。現在は、その保存されていた穴倉は見つかっていません。
10.酪農団地:豊田
泉北ニュータウン開発計画を契機に、23戸の酪農家が集まり、将来にわたり安定した酪農経営を行う場所として酪農団 地を建設し、1971年から経営を開 始しました。1990,91年には市内の農家に良質な堆きゅう肥を供給するために、糞尿処理施設を取り入れました。現在敷地面積約30ha、酪農家14戸、乳牛約800頭を飼育しています。
明治時代に、豊田、栂、片蔵の3つの村で中上神村となりま した。明治27年に、南上神村(畑、逆瀬川、鉢ヶ峯、釜室)と合併して上神谷村となりました。この村を昭和30年に東・西陶器村、久世村と合併して、泉ヶ丘町となりました。昭和34年(1959)に堺市に合併したとき、日置荘にも「田中」があったので、泉ヶ丘町からの「田中」ということで「泉田中」と町名が変わりました。
12.小西行長供養塔:蜂ヶ峯寺
1600年の関ヶ原の戦いで小西行長は敗れ、処刑されます が、1767年に小西一族の吉岡氏によって南島墓地(三宝校区)に供養塔が建立されました。小西氏末裔の方が、南島墓地に埋没した供養塔を発見され、大和川拡張工事のために、1961年に鉢ヶ峯墓地に移されました。
垂仁天皇8年(紀元前22)に、天照大神が鳳凰となってこの峯に降り、景行天皇24年に神託により武内宿禰に命じて、社殿を造営したといわれています。同55年に神鳳が千種の杜に移り、現在の大鳥大社になったといわれています。1910年に桜井神社に合祀され、それに伴って、鎌倉時代初期の神像3体、1412年奉納の石灯籠なども同時に移されています。また、現在桜井神社に奉納されている「こおどり」も、元は国神社に奉納されていたものです。
14.襲の峯:蜂ヶ峯寺
紀元前22年に、天照大神が鳳凰になってこの峯に降りたと上に記しましたが、その降りた場所が、この「襲の峯」です。神様が降りてこられた郷なのでこの地を「上神郷」といい、「上神谷」となったとされています。
15.桜井古跡:片蔵
桜井井戸と呼ばれ、はるか昔から桜井神社のお祭りに深くかかわりがあったとされています。常に清水が湧き出して枯れることがなかったそうですが、1885年の大洪水により川が氾濫し、埋没しました。1915年に復元されましたが井戸は現存していません。
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