登美丘西小校区の史跡

堺市立登美丘西小学校

〒599-8126   大阪府堺市東区大美野135

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1.大美野住宅地:大美野

 1930年から開発が始まり、翌年から開発したところから分譲地の販売を開始した、大美野田園都市です。1941年には全て完売しました。ヨーロッパの田園都市をモデルに、ロータリーを中心としたドイツ式の放射線環状道路の設置、道路面にはカイヅカイブキの生垣という斬新な計画で開発がすすめられてきていました。総面積40万㎡という広大さです。

 

 

 

 

 

2.地名「関茶屋」

 南北朝時代に楠木氏の部下の日置武光が関所を設けて守らせたので、「大野関」と呼ばれてきました。元禄15年、日置正近はここを開拓して関新田と呼びましたが、人々が集まってきたので茶屋を設けて休憩所としました。いつの間にか、関茶屋新田という地名ができました。

 

 

3.「開山行基大菩薩」石碑:関茶屋

 高松墓地にある「行基菩薩」の石碑です。なぜここにあるのかは不明です。が、おそらく行基が開山したとされる丈六寺にもともと建てられていたこの石碑が、丈六寺が兵火で焼失後に、この墓地に移されたのでしょう。

 

 

 

 

4.元宮(出雲大社大阪分祀御旅所):関茶屋

 出雲大社大阪分祀の前身の愛宕神社の碑が、御旅所の中央に据えられています。もとの愛宕神社のあった場所で、新しく出雲大社大阪分祀となってからは、御旅所となっています。

 

 

5.十二里石:関茶屋

 高野街道は、河内長野市から橋本市とを結ぶ街道で、各地から長野までを結んでいる道として「~高野街道」と呼ばれています。西高野街道は、平安時代後期から鎌倉時代始め頃には、高野山参詣道として賑わっていました。写真の「里程石」は、河内の茱萸木村の百姓小左衛門と五兵衛の発起で、1857年に建てられたと言われています。高野山まで13本建てられており、堺市内には、榎元町にも「十三里石」が建っています。

 

 

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