6 元堺県庁さかいけんちょう・北の御坊ごぼうさん

 前回の山口家住宅から少し南に歩きましょうか。そこから少し東に入ると、西本願寺ほんがんじさかい別院べついんの前に出ます。

西本願寺堺別院

 このお寺の本堂ほんどうは、堺市で一番大きな木造もくぞう建築けんちくです。昔から堺の市民に「北の御坊さん」とよばれてしたしまれてきています。私の子どものころは熊野ゆや小学校に住んでいたのですが、どこから見てもこの北の御坊さんの大きな屋根やねが見えていました。それだけ私には印象いんしょうつよいお寺として心にのこっています。

 さて、このお寺は覚如上人しょうにんによっててられました。しかし、寛政かんせい10(1798)年の火事で一度焼けています。文政ぶんせい8(1825)年にふたたびび建てられたものが現在見られる建物です。

本堂内陣
(「西本願寺堺別院」ホームページより)

 ところで、慶応けいおう4(1868)年、大鳥、泉、南、日根ひねの四つのぐんをふくめて堺の町は堺県となりました。さらによく明治2年には、河内県や狭山藩さやまはんも堺県に、明治4年には、伯太はかた、岸和田、丹南たんなん、吉見の各県も堺県にふくまれるようになっています。そのときにこの西本願寺堺別院に堺県庁がおかれました。堺県の役所やくしょですね。

 その後も堺県はふくらみ、明治9年には現在の奈良県まで堺県になっています。「堺かるた」に
 「和泉 河内 大和 あわせて 堺県」
とあるのがこのときの堺県のことです。

 しかし、明治14年には、堺県は大阪府にふくまれるようになり堺県が消え去るとともに、堺県庁もこの北の御坊さんからなくなりました。

 現在、の境内けいだいに入ると、親鸞しんらん上人しょうにん蓮如れんにょ上人しょうにん銅像どうぞうも建てられています。また、与謝よさ晶子あきこ歌碑かひとも出会うことでょう。

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