中世終わり近くには、堺の湊近くの海に、南蛮船とよばれるポルトガルの大きな船が入ってきました。現在のインドを通り東南アジア方面から堺に入ってくるので、南からくる異人の船ということで、「南蛮船」とよばれています。堺の沖に止まっている船から、堺の湊までは小さな船に乗り換えてきます。ヨーロッパやアジア各国のめずらしい品物をたくさん運んできていました。宣教師をはじめとして技術者や船乗りたちも上陸をしてきました。その人たちが堺の交易のできる場所まで次々と歩いてきます。このようすを現代では「南蛮行列」とよんでいます。
外国の人たちは、当時の日本人にとってとてもめずらしかったでしょう。身体も大きく、はだの色もちがって、国内で生活しているだけでは出会えない人たちです。服装もまったくちがいますし、見たこともないゾウやトラなどの動物までつれています。それだけではありません。彼らは、新しい宗教であるキリスト教やガラス製品、香料、薬草、植物なども持ち込んできました。わが国の商人たちはこれらのものには飛びついたのに違いありません。お金持ちの人たちにとっては、どれものどから手が出るほどほしい物ばかりだったのですから。堺の商人たちは、この南蛮船が湊に着くのを心から待ち望むようになりました。
堺のまちを南蛮人たちが歩いてくれているころは、堺が一番栄えた、そして世界に開かれた、最先端をいく町だったのです。
戦前にも南蛮行列は行われていましたが、戦後昭和49(1974)年に第一回堺まつりが開かれたときに戦後で初めて「南蛮行列」が復活しました。さきに書いた堺の町のはなやかな時代がもう一度、堺にやってきてほしいと願って、復活したのかもしれません。