107 行基ぎょうき菩薩ぼさつ遺物いぶつ

上地蔵尊

 バスていかみ」の南東50メートルほどのところに、「上地蔵かみじぞうそん」とられたお堂(写真上)が建っています。このお堂にはお地蔵様がまつられています。ここにまつられているお地蔵様は、行基が掘られたと言われています。

 668年ごろ、上村に住んでいたてるという女性が、おさない頃の行基の乳母うばとなって幼い行基を育てていました。行基が大人になったときに、照のお世話になったことにむくいるために行基みずからお地蔵様を彫って照に与えました。照はその後あまさんとなってこのお地蔵様をおまつりしました。その後(1580頃)村をおそった悪人あくにんが、このお地蔵様を井戸に投げ込んだのです。

釈迦院

 正保しょうほう3年(1644)のある日、井戸から村人をぶ声が聞こえたので井戸をのぞくと、一対の石像せきぞうがありました。これを引き上げるとお地蔵様で、村人たちはお堂をつくりこれにお地蔵様をおまつりしたのです。それ以後、この村の安全や健康けんこうとともに、安産あんざん母乳ぼにゅうの出がよくなったといわれています。

 次は、東区丈六じょうろくにある釈迦院しゃかいんです。昔、行基が大野に丈六寺じょうろくでらを建てました。その後、戦乱せんらんけてしまいましたが、丈六寺の子院しいんだったこのお寺だけが焼け残ったのです。

浄教寺

 このお寺のすぐ北には、じょう教寺きょうじがあります。このお寺は、先の行基が建てたとされる丈六寺の子院でした。このお寺も南北朝時代の戦乱で焼けてしまいました。南朝方の楠木くすのき正成まさしげのけらいのまごがこのお寺の跡地あとちに建てたのがこの浄教寺です。

 この浄教寺から800メートルほど西に行くと、せき茶屋ちゃやにある高松たかまつ墓地ぼちに出ます。この墓地には「開山かいざん行基ぎょうき大菩薩だいぼさつ」と彫られた石碑せきひが建っています。くわしいことはわかりませんが、丈六寺に建っていた石碑ではないかと言われています。また、白鷺しらさぎ幼稚園ようちえんの西にある墓地には、「行基菩薩」と彫られた台座だいざの上に行基像があります。これも丈六寺にあったものかもしれませんね。このように、堺市内には、行基にかかわる様々な遺物いぶつがあるのです。

「開山行基菩薩」台座の行基座像

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