8 みょう国寺こくじさかい事件じけん

 妙国寺にからんで、もう一つ、書いておきましょう。それは、「堺事件」とよばれている事件です。

 慶応けいおう4年(1868年)は、武士ぶしの時代が終わる年です。この年に、堺の町の安全を守るために、土佐藩とさはん兵隊へいたいの、箕浦猪之みのうらいのきち隊長たいちょうとする六番隊と西村へいを隊長とする八番隊とが堺の町を見回っていました。

 そのころは、外国人は一部をのぞいてかってにわが国の町に入れないことになっていました。堺の町はみとめられていたのですが、フランス人2名が大阪から堺の町に入ろうとして、許可証きょかしょうがなかったので大阪に引き返しました。

 2人のフランス人が帰ってこないので、海軍のフランス兵22名がその2名をさがしに堺のみなと上陸じょうりくしました。それを見かけた土佐藩の兵が、フランス兵にもどるように言いましたが、言葉が通じません。しかも、フランス兵は、ふざけて土佐藩兵のたいはたを取ろうとしました。それを見た土佐藩兵は、フランス兵をとらえようとするとげだしたので、フランス兵に発砲はっぽうし、11人をころしたりきずつけたりしたことが、この事件の始まりです。

 おこったフランス軍は、さっそく日本政府せいふにうったえ、犯人はんにんの打ち首と多額たがくのばいしょう金(15万ドル)を要求ようきゅうしました。おどろいた政府は、箕浦隊長をはじめとする20名の兵の切腹せっぷくとばいしょう金の支払しはらいなど要求をすべて)け入れました。

宝珠院にある土佐十一烈士の墓

 土佐藩兵が切腹することになったのが、妙国寺境内けいだいです。午後4時ごろに始まった切腹は、11番目の土佐藩兵の 時には日がくれてうす暗くなってきていました。はじめて 見た切腹のおそろしさでフランス兵は気分が悪くなり、切腹の中止ちゅうしを命じるとすぐに船にもどってしまいました。

 残された九名はざいにんとして土佐に帰され、くなった11名は、妙国寺の向かいの宝珠院ほうじゅいんにほうむられています。また亡くなったフランス兵は、神戸の外人墓地ぼちにほうむられています。

 なお、切腹の場となった妙国寺には「英士えいし割腹かっぷくあと」のせきが建てられています。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です