紀州街道の方にもどります。そこには「小西行長屋敷跡」があります。といっても、古い石の碑がたっているだけです。
小西行長とは、豊臣秀吉の武将の一人で、もとは堺の薬問屋小西隆佐の子どもでした。隆佐は、外国から入ってきた薬や香料、火薬のもとになるものをあつかっていた豪商です。キリスト教の信者で、豊臣秀吉の信頼がとてもあつく、各地の大名のようすをしらべて秀吉につたえることもしていたようです。
その子の行長も秀吉にかわいがられ、大名にとりたてられて瀬戸内を支配することになってはたらいていました。そのはたらきがみとめられて、ライバルの加藤清正と肥後の国(現在の熊本県)を分け合って、南半分の24万石宇土城の主となっています。
文禄元(1592)年、秀吉が朝鮮をせめようとしたときも、清正とともに大将として軍を出しています。しかし、行長は清正とは考えがあわず、朝鮮とのいくさを途中でやめるようにはたらいて、朝鮮から秀吉の軍を日本にもどしました。
秀吉がなくなった後には、同じ大名の徳川家康が力をもって日本の国をおさめ出しました。そこで、行長は、仲間の石田光成らとともに徳川家康と戦いました。これが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いです。でも、味方だった小早川方が家康方についてこうげきをしてきたために、石田・小西方はまけて、とらえられてしまいました。京の六条河原でともに処刑されています。
堺出身の武将としては、あまりめだたない行長ですが、秀吉の敵の大名、とくに宇喜多秀家を秀吉方につけるためによくはたらき、秀吉に大事にされたのでしょう。