9 小西行長屋敷やしきあと

 紀州きしゅう街道かいどうの方にもどります。そこには「小西行長屋敷跡」があります。といっても、古い石のがたっているだけです。

 小西行長とは、豊臣とよとみひでよし武将ぶしょうの一人で、もとは堺のくすり問屋どんや小西こにしりゅうの子どもでした。隆佐は、外国から入ってきたくすり香料こうりょう火薬かやくのもとになるものをあつかっていた豪商ごうしょうです。キリスト教の信者しんじゃで、豊臣秀吉の信頼しんらいがとてもあつく、各地かくちの大名のようすをしらべて秀吉につたえることもしていたようです。

小西行長屋敷跡の石碑

 その子の行長も秀吉にかわいがられ、大名にとりたてられて瀬戸内せとうち支配しはいすることになってはたらいていました。そのはたらきがみとめられて、ライバルの加藤かとうきよまさ肥後ひごの国(現在の熊本県くまもとけん)を分け合って、南半分の24万石宇土うどじょうあるじとなっています。

 ぶんろく元(1592)年、秀吉が朝鮮ちょうせんをせめようとしたときも、清正とともに大将としてぐんを出しています。しかし、行長は清正とは考えがあわず、朝鮮とのいくさを途中とちゅうでやめるようにはたらいて、朝鮮から秀吉の軍を日本にもどしました。

 秀吉がなくなった後には、同じ大名の徳川とくがわ家康いえやすが力をもって日本の国をおさめ出しました。そこで、行長は、仲間なかまの石田みつなりらとともに徳川家康とたたかいました。これが、慶長けいちょう5(1600)年の関ヶ原せきがはらの戦いです。でも、味方みかただった小早川こばやかわ方が家康方についてこうげきをしてきたために、石田・小西方はまけて、とらえられてしまいました。京の六条ろくじょう河原がわらでともに処刑しょけいされています。

 堺出身の武将ぶしょうとしては、あまりめだたない行長ですが、秀吉のてきの大名、とくに宇喜多うきた秀家ひでいえを秀吉方につけるためによくはたらき、秀吉に大事にされたのでしょう。

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