10 ザビエル公園こうえん

 小西こにしゆき長屋敷ながやしきあとからさらに南にむかいます。花田口はなだくちていりゅう所の西側にしがわに大きな公園が見えてきます。これがザビエル公園とよばれている公園です。正しくはえびす公園というのですが、市民からは「ザビエル公園」とよばれています。

ザビエル公園

 この公園のところには、堺が自治じち都市としだったころ(1500年代なかばころ)には、豪商ごうしょう日比屋了慶ひびやりょうけい屋敷やしきがありました。紀州きしゅう街道かいどう側に店があり、うらは海になっていたようです。堺のおきにとまっている船から、小舟で運ばれてきためずらしい品物を、直接ちょくせつ、屋敷の倉庫そうこにいれていたのでしょう。当時としてはめずらしい三階建の建物たてものだったといいます。

 では、なぜ、この日比屋了慶の屋敷のあとの公園が「ザビエル公園」とよばれているのでしょう。実はこの了慶の屋敷に、天文19(1550)年、ポルトガル人宣教師せんきょうしのフランシスコ・ザビエルが堺に来た時に、とまっているからです。ここから了慶はザビエルを京都きょうと案内あんないしています。しかし当時の京都はいくさであれており、キリスト教をひろめることはできないので堺にひきかえしています。

 堺の町でザビエルは自宅じたく教会きょうかい南蛮寺なんばんじ)にして信者しんじゃをふやしていきます。日比屋了慶もキリスト教の信者しんじゃになっています。

ザビエル公園内のザビエルによる
西洋文化はじまりの碑

 永禄えいろく6(1563)年、この南蛮寺でクリスマスも行われたのです。西洋の文化が入ってきた最初だったといってもいいでしょう。わが国の各地で戦争せんそうが行われていたころのことです。

 なお写真の中央にあるはザビエルが来られて400年である昭和24(1949)年に公園が開かれたときに、立てられたものです。

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