前回の堺駅南口から少し北に歩いて、堺駅の西口前にまで行ってみましょう。そこにある銅像は、「与謝野晶子像」です。
像の台座には、
「ふるさとの 潮の遠音のわが胸に
ひびくをおぼゆ 初夏の雲」
と書かれています。
これは、明治38年に歌ったもので、初夏の青空にうかぶ白い雲を見ていますと、いつしか胸の中にふるさとの潮の遠音がひびいて来るように思われます、という意味だそうです。この「ふるさと」というのが、与謝野晶子が生まれたこの堺の地で、「潮の遠音」というのは、昭和30年代前半まであった大浜の海の潮の音ということになります。
与謝野晶子の生まれた家は、駿河屋というお菓子やでした。場所は、現在の阪堺電車の宿院停りゅう所の北にありました。阪堺電車の通っている紀州街道は、昭和30年に西側に拡げられたために、晶子の生まれた家のあとはなくなってしまいました。現在は、その西側に「晶子生家跡」としての碑と、
「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつゝ
少女となりし 父母の家」
と書かれた歌碑とが設置されています。この歌に書かれている「海」はやはり大浜の海ですし、「父母の家」とは、自分の生まれ育った家のことですね。
ともに「潮の遠音」「潮の遠鳴り」と歌われているように、晶子のころには、海の遠鳴りが聞こえてくるほど、海が近くにあったということでしょう。
現在堺市内には、与謝野晶子の歌碑は23建立されています。市内では結構古く昭和41年に設置された浜寺公園の歌碑にもやはり堺の「海」が歌われています。この浜寺公園の地は、明治33年に堺を訪れた与謝野鉄幹がもよおした歌会の会場であった「寿命館」のあったところです。ここで晶子は、鉄幹と運命の出会いをし、その2年後には、鉄幹と結婚するのです。有名な、「君死にたまふことなかれ」のうたをよむのはさらにその2年後のことです。