今回は、与謝野晶子をもう少しみていきましょう。晶子は与謝野鉄幹と出会い、結婚をして東京でくらします。二人で詩集を出したり同人といって考えを同じくする人たちどうしで詩についての話し合いをしたり、他の人の詩について考えを言い合ったりして、自分たちの詩の勉強をしてそして、有名な「明星」という雑誌や「みだれ髪」「舞姫」などの詩集を出して、自分の気持ちを歌にしてうったえました。
また、明治37(1904)年に、日本とロシアが戦争したときに、晶子の弟が戦争に行くときの家族のすなおな気持ちを歌にした、「君死にたまふことなかれ」を発表しました。この詩は、戦争をいやがっているものだということで、晶子たちはきびしくこうげきをされ続けます。でもそんなこうげきには負けませんでした。
しだいに夫の鉄幹よりも晶子の方が、みなに認められるようになり、鉄幹は、ヨーロッパで勉強しなおします。一年後、晶子もヨーロッパに行っています。
晶子は、女性が男性よりも低く見られていることを強く訴えて、女性の地位を高める運動をしていきます。さらに、女性の地位を高め、男の人にたよらないで生きていける女性をそだてるために、東京で「文化学院」をつくりました。
そして、昭和17(1942)年5月29日、62さいで晶子はなくなっています。
現在、堺市内には23もの歌碑が建てられています。一つしょうかいしましょう。写真の歌碑では、
「その子はたち くしにながるゝ くろかみの
おごりの春の うつくしきかな」
と、うたわれています。若いころの自分のくろくて美しい髪を愛しながら、夢と希望でいっぱいの気持ちをあらわしています。
さきの「君死にたまふこなかれ」の歌碑は晶子が卒業した堺高等女学校(現在は大阪府立泉陽高等学校)におかれています。晶子はここでは明治21年から6年間学んでいました。