堺市内をウォーキングすることが大好きな私は、市内のあちこちを歩き回ることが楽しみになっています。回りながら、知らぬ間に堺の歴史にかかわる土地をさがし歩いていました。その一部をここに「堺歴史ウォーキング」と題してのせていきます。
第一回目は、「むかしの堺の町」をテーマにします。むかしといっても、今回は、江戸時代ごろからの堺のようすについて書いてみましょう。
そのころの堺の町は、「土居川」という川に北・東・南の三方をかこまれていました。西は海ですので、完全に水にかこまれていたのです。その水にかこまれた内側が堺の町でした。現在は、東側の川はうめ立てられて阪神高速道路が通っていますし、西側の海はうめ立てられて「内川」として残されています。
さて、この町が今からおよそ四百年前(1615年)に新しくつくられました。この年におこった「大坂夏の陣」で徳川方が豊臣方のこもる大坂城をせめた時に、当時わが国で一番お金もちだった堺の町を、徳川方に取られるのをおそれた豊臣方は、それまでに秀吉がうめ立てていたほりの内側である堺の町を、焼いてしまったのです。
その後、堺の町が消えるのをおそれた家康が、けらいの風間六右衛門に堺のほりを掘らせて、町わりをするように命じました。そしてできた堺の町が、現在の堺の町のもとです。第二次世界大戦で一面焼け野原となり、現在は北の一部を除いて、全く新しい町なみに生まれ変わっています。
現在の町を歩いてもなかなか当時のおもかげは感じませんが、阪堺電車の「綾の町」停りゅう所の北側は江戸時代の道がそのまま残されています。紀州街道(現・阪堺電車の道すじから北にのびている道)の東西に細い道がのびており、その道を歩いていると、なんとなく江戸時代を感じさせてくれます。