今回は、焼け残った堺について書いていきましょう。
第二次世界大戦で昔の堺が焼けてしまったことは、前回に書きました。しかし、かろうじて北部だけは焼け残ったことも書きました。
この北部を歩いていると、古く細い道すじとともに古い建物も数多く見られます。このあたりに、昔から刃物業を営んでおられた家が多数ありました。「鍛冶」「砥ぎ」「柄付け」「販売」などと、種類に分かれて家内工業で行われていたのです。現在でも何げんかは刃物業をされておられます。一人ひとりが専門としている仕事については、その技術とプライドとをもって仕事をなさっておられます。
なぜ、このあたりに刃物業者が集まったのでしょうか。それは、戦国時代にまでさかのぼります(鍛冶職人としては古墳時代までさかのぼることもできるかもしれません)。今から五百年ほど前のことです。刀ややりで戦争をしていた時代に、西洋から入ってきた鉄砲(火なわじゅう)で戦争の形を変えていきました。その火なわじゅうを専門に造っていたのが堺の職人だったのです。それがちょうどこの堺の北部一帯で、榎並屋勘左衛門、芝辻理右衛門などの鉄砲鍛冶が仕事をされていたのです。
江戸時代になって戦がなくなると鉄砲も必要でなくなり、鳥などをうつための火なわじゅう造りとして技術が残ります。また、わが国に入ってきたタバコをきざむための刃物が必要となり、当時の堺にあったカミソリを作る技術をもとにしてタバコ庖丁つくりに生産が変わっていきました。これが、現在の堺の庖丁つくりに受けつがれていきました。
堺の庖丁は、世界的にも技術がすぐれ、切れ味がとてもよく、調理師さんなどはきそって堺の庖丁を手にして、料理を作っています。切れ味を良くするために、刃物の地金にとても堅い鋼を くっつけて打ち 込みと焼き入れ とを繰り返して います。それを いくつものと石 を使って何度も 砥ぐことで、カ ミソリの刃のよ うな切れ味を出 しています。
現在では後つ ぎ不足が大きな 課題です。