20 堺を取りいていた土居どいがわ

 ふたたび紀州きしゅう街道かいどうにもどって、さらに南へ向かいましょう。阪堺電車の「御陵前ごりょうま えていりゅう所に出ます。そこには大きなはしがかかっています。「少林寺しょうりんじばし」です。ここが昔の堺の町の南のはしにあたります。現代でもここから東西に土居川が流れています。下の写真は、現在の土居川にかこまれている昔の堺の町を南側から見たところです。

 この土居川は、以前にも書いたようにむかしの堺の町を北・東・南と取りかこんでいました。この川によって堺の町を取りかこんだのは、自治都市のころよりも古く、1399年ごろのことではないかと言われています。それは、おうえいらんの時(同年)に堺の町に立てこもった大内義弘よしひろは、堺の周りのほりを深くして、48ものやぐらをつくって室町むろまち幕府ばくふの軍と戦ったことから、ほぼそのころから堀らしいものがあったのではないかと想像そうぞうできるのです。

山之口橋から西を

 この土居川も、堀をめぐらして自治じちを行うような堺があってはならないとする豊臣とよとみひでよしによって、1586年にうめ立てられました。そして、これを新たに掘ったのが「堺歴史ウォーキング」の第一回でも書きましたが、1615年のことです。

 そのときに、この川のすぐ内側にはお百姓ひゃくしょうさんたちを住まわせて「農人のうにんまち」とし、その内側にはお寺をならべて「寺町」としました。商人たちは、さらにその内側に大きな店をかまえることで、堺の町自身を一つの城塞じょうさい都市としのようにしたのです。昔の中国の都市は、すべてしろを中心として大きなかべで町をかこみ、その中に人々を住まわせていたので、まるでそれと同じような形をとっていました。

 町の中央の大小おおしょう路筋じすじをはさんで、大大きな二つの神社じんじゃををおき、町の南北の中心にしています。また北の方には代官所だいかんしょをおき、堺を直接徳川幕とくがわばくおさめました。現在の殿との馬場ばば中学校付近のことです。

 田や畑は土居川の東側にあり、お百姓さんたちは、毎日橋を渡って畑仕事に出かけていたようです。

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