前回の旧鉄砲鍛冶屋敷の一本うらの道に、「清学院」という建物があります。
ここは、もともとは山で修業をする山伏が町に住むようになって開かれたお寺です。この清学院では、江戸時代の後半ころから明治時代のはじめのころまで、「清光堂」という寺子屋もおこなっていました。寺子屋というのは、現代のような学校のなかった時代に、学校のかわりに文字やそろばんを教えてくれたところです。
この寺子屋で、後の河口慧海が、数え年6さいで学んでいました。明治4(1871)年のことです。河口慧海という人は、大人になってチベットというヒマラヤのふもとに広がる国に入って、お経のもとを手に入れた人です。
慧海は、慶応2(1866)年に清学院の近くで生まれました。勉強がすきで、昼間はたるなどを作る家のしごとをてつだい、夜学にかよいました。15さいのときに「しゃか一代記」(※1)という仏教をはじめたおしゃかさんについての本を読んで、自分もおぼうさんになることをめざします。でも、日本でお経をよんでいても、お経によっては書いていることが少しずつちがいます。そこで、自分がチベットに行ってお経のもとを手に入れようとしたのです。
そのころのチベットは「鎖国」といって、国をとざして外国の人をだれも入れないようにしていました。こっそり入って見つかれば殺されます。しかたなく、チベット語の勉強をして、たくさんの荷物をせおってヒマラヤをこえて、4年後の明治34年にようやくチベットのラサという町につきました。熱心に勉強をしてたくさんのお経を集めました。日本人であることが見つかって殺されかけ、チベットをぬけだして 日本にお経を 持ちかえりま した。その後、 またチベット に行き、あら たなお経を手 にいれて大正4(1915) 年に、日本に 帰ってきまし た。
なお、南海 本線七道駅の 西側には、慧 海の像が建っ ています。
(※1)
「好華堂野亭編『釈迦一代記図絵』(1845年刊)」と考えられる と、高野山大学:奥山直司氏が、ヒマラヤ学誌 No.16で「日本人とチベット -河口慧海のチベット旅行を中心として-」で書かれておられる