前回の船待神社からさらに紀州街道を南へ歩いていきましょう。新湊小学校の前には、下の写真のような風車が建っています。なぜこんなところに風車があるのでしょうか。
現在の新湊小学校から浜寺石津小学校にかけて、かつては多くの風車が立っていました。私の小学校のころに、南海本線に乗って堺駅から浜寺公園の方に向かうと、電車の東の方のまどから風車がたくさん立っているのが見え、「ああ、石津に来たんだな。」と思ったものです。
今から百年ほど前(大正時代末)、このあたりではミツバやホウレンソウなどの野菜を作っていましたが、多くの水を井戸からくみ上げるのが大変なしごとでした。
もともとここの土地は砂地で、4~5メートルもほると多くの水が出てきたのです。しかし、はねつるべを使って何度も水をくみ上げなければなりません。もっと楽に水をくみ上げる方法はないものかとなやみ続けていたのでしょう。ある時、オランダの風車をヒントに地元の和田忠夫さんが、海からふく風を受けて井戸水をくみ上げる風車を考え出しました。これが石津の風車の始まりです。
風車がくみ上げた水を横のプールにためて、人はその水をたんごですくい、畑に水をあたえるだけでよくなったのです。水を井戸からくみ上げなくてもいいので楽です。
この風車は、昭和22(1947)年には350基にもなり、このあたりをうめつくしていました。石津の町は、大阪市に近く、野菜を新鮮なままでたくさん運ぶのに便利な場所だったので、一気に風車による地下水のくみ上げが始まったのでしょう。私の子どものころもこれと近い時代だったので、風車があるのが当たり前だったのですね。
ところが、昭和33(1958)年ころから、臨海工業地の開発で、海のうめ立てが始まったのです。そのために、このあたりの風景が変わってしまいました。今までの畑は住宅や工場にかわっていき、畑がどんどんすがたを消すとともに風車もいつのまにか見ることができなくなっていきました。
石津の地域を示す一つの風物詩だったのでが、おしいですね。