大阪狭山市ウォーキング

 

 

 

 

 

はじめに

 私が大阪狭山市に入ったのは、大学1年生のときです。某ハウスメーカーでアルバイトをしていた時の工事現場が、狭山町時代の狭山ニュータウン西山台だったのです。昭和49年(1969)の狭山ニュータウンの開発が始まった頃です。

 当時住んでいた堺東の方に自宅があり、ハウスメーカーもその近くでしたので、そこから毎日、6人乗りのバンで現地に行きました。資材を運んだり、壁塗りの下地を作ったり、廃材を空き地で燃やしたりしていました。帰りの車では、大工の棟梁から、自分がいないとこの仕事ができないというような人になれというような話をしてもらった記憶があります。

 また、私の2歳上の姉の親友が狭山町の自由丘に住んでおり、その人についての話を聞いたり、その人が我が家に遊びに来たりしていたので、なんとなく、「狭山」には親しみを感じてもいました。

 私が中年過ぎ頃からウォーキングが趣味になり、自分の住んでいる堺市内の道を歩き続け、総ての道を歩き通したのです。歩くべき道がなくなり、自宅から近い大阪狭山市の道を歩くことにしました。歩いていると、その地の歴史も垣間見えてくる楽しみもありました。それも平成28年には、市内の総ての道を歩き通したので、とりあえずまとめてみることにしたのが、この冊子です。独りよがりの冊子ですが、ご覧下さい。

 

 

目次

はじめに

1.大阪狭山市の地形と写真・・・・・・・・・・・・・1
2.大阪狭山市の歴史を物語るもの・・・・・・・・・・7
 1.狭山池・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
 2.狭山藩陣屋跡・・・・・・・・・・・・・・・・11
 3.大阪府立狭山池博物館・・・・・・・・・・・・15
 4.高野街道・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
  西高野街道・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
  下・中高野街道・・・・・・・・・・・・・・・・29
 5.天野街道・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
 6.高野鉄道の開通・・・・・・・・・・・・・・・41
  3つの駅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
 7.2つの神社と他の神社・・・・・・・・・・・・47
 8.狭山ニュータウンの開発と学校・・・・・・・・52
3.大阪狭山市の現況・・・・・・・・・・・・・・・59
 各種施設・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
 市民が集う公園・緑道・・・・・・・・・・・・・・70
 名前の付いた通り・・・・・・・・・・・・・・・・72
 狭山池も市民とともに・・・・・・・・・・・・・・75
4.こんなところに、こんなものが    ・・・・・・・・83
 狭山町の発見!・・・・・・・・・・・・・・・・・83
 路上での発見!・・・・・・・・・・・・・・・・・85
 カラフルなコミュニティバスを発見!・・・・・・・87
 さやりんの発見!・・・・・・・・・・・・・・・・88
 大阪狭山市で見つけた崖?発見!・・・・・・・・・94
 地車小屋発見!・・・・・・・・・・・・・・・・・95
 壁画も発見!・・・・・・・・・・・・・・・・・・97
 立体物の発見!・・・・・・・・・・・・・・・・103
付録:気になる地名の話・・・・・・・・・・・・・111
   参考図書・・・・・・・・・・・・・・・・・114
   全図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・115
おわりに

 

1.大阪狭山市の地形と写真

 次ページの地形図でわかるように、南及び南西部が高くなっています。

 南部の高地は大野地区でブドウ栽培が盛んです。左奥に見える高層の建物は、近大医学部附属病院です。

 また、南西部の堺市南区晴美台地区と接しているところは陶器山で、標高149mあります。その峠道が天野街道になっており、岩室から河内長野市の天野山金剛寺まで続いています。金剛寺は高野山が女人禁制だったのに対して、この寺は女性も参詣できたので「女人高野」とも呼ばれています。

高野山金剛寺

 地形図の中央のやや北寄りが広く空いていますが、ここに狭山池があります。狭山池といえば、昨年(2016年)が、築造1400年に当たりますね。616年といえば飛鳥時代ですが、渡来人の技術で、西除川と三津屋川の合流点付近をせき止めて築かれました。狭山池付近から南西に低地が延びていますが、ここを三津屋川が南から北に向かい、狭山池に流れ込んでいます。南東の方に伸びている低地が西除川の流れです。

 地形図です。

地形図だけでは分かりにくいので、少し古いですが航空写真と比べてみましょう

 こうすると、狭山池や狭山ニュータウンが明確になり、大阪狭山市のどういう地形の上に成り立っているかが分かりますね。

 狭山池の南南西の中央にある丘(黒っぽい部分)が、現在の帝塚山学院大学です。また、狭山ニュータウンの南東に位置する丘が、近大医学部附属病院ですね。狭山ニュータウンは、この2つの施設に挟まれたところに位置しているのが分かるでしょう。狭山ニュータウンは、大阪狭山市の南部の丘陵地を開発されたことが分かります。もともとは、雑木林の広がっていた山林でした。ここを南海電鉄が主体となって、昭和42年(1967)から開発を行ったのです。

 大阪狭山市の北側は堺市東区北野田・西野地区と美原区で、西側は堺市南区晴美台・槇塚台、東側は富田林市、南側は河内長野市です。この各市に接しています。

 狭山池の北にある池は太満池で、この池を浄水して一部の家庭に送られていますね。また、その東にある南北に長い池は大鳥池です。いずれもため池で、この他にも中小のため池は各所に存在しています。

 今度は、現在の大阪狭山市の衛星写真を見ましょう。一部地区は切れてしまいましたが、基本は、1976年の写真とあまり大きな変化はありませんし、北西から南東にと、南海高野線が走っていますし、狭山池の西側を国道310号線が南南東に走っています。

まずは、北部(Googleマップより)

次に、南部(Googleマップより)

 

2.大阪狭山市の歴史を物語るもの

1.狭山池

 まずは、何と言っても「狭山池」ですね。つくられた年代は、現在定説となっているのは、616年ということです。

 これは、昭和62年(1987)から行われた狭山池の改修で、北堤からこの池を築造した際のコウヤマキ製の樋が見つかりました。この樋の年輪から616年に築造されたことが分かったからです。

 616年というと推古天皇の時代で、このため池を造らねばならないほど、確かな農業生産が求められていたのでしょう。我が国にはなかった池溝の技術は、百済からの渡来人によってもたらされたのです。

  この狭山池は次の写真のように、堺市の東北部や、狭山池の北、現在の大和川をこえて大阪市内までも灌漑していました。

狭山池博物館に展示している、狭山池の灌漑範囲を示す模型です。

 天平3年(731)には、僧行基が狭山池を改修しています。堤を約60cmかさ上げしており、多くの農民たちが行基の元に集まって土を盛っていったのでしょう。それとともに行基は、狭山池院、狭山池尼院も設置したことが「行基年譜」に記されています。

 また、鎌倉時代には、僧重源が狭山池を改修しています。下の写真は、平成の改修で見つかった「重源碑」で、過去に堤を改修する際に、何度堤を改修しても崩れるので、石棺が使われたようです。他の石棺も利用されていました。

尺八樋(模型)

 さらに、江戸時代はじめの慶長13年(1608)には、豊臣秀頼のもとで、奉行の片桐且元が大改修を指揮しています。東・中・西樋と3か所に樋を設置しており、中樋と西樋は、「尺八樋」という上下4段の取水口をもつ構造でした。

 この工事で下奉行を務めた田中孫左衛門は池守として残り、孫子の代までも続いていました。

 現在の狭山池の堤には、東・中・西の各樋があったところに、その樋を示す説明板が設置されています。

 見つかった東樋は右の写真のようなもので、ヒノキの板材を組んだおよそ73mの樋管です。この樋の下にももう一つ樋が見つかっており、この樋は飛鳥時代の狭山池築造時に設けられた取水施設で、616年伐採のコウヤマキをくりぬいてつないだものです。

 中樋は、下の写真のもので、4段構造の取水施設です。この施設は大正時代の終わりまで使われていました。また、この施設の最も下の段からは、僧重源が樋管に使った古墳の石棺や、建仁2年(1202)の重源の改修の様子を刻んだ改修碑が見つかっています

 

 

 

 

 

 そして、西樋です。下の写真がそれで、中樋同様4段構造の取水樋です。 

 これも大正時代の終わりまで使われていました。下の段の樋管には1599年伐採のヒノキ材が使われています。この西樋の設置された場所は、池底で最も低く、狭山池の底水を抜くことが可能でした。いずれの樋も、国の重要文化財に指定されています。

 また、昭和63年(1988)から始められた平成の改修は、平成13年(2001)までの14年間にわたって行われました。池底を掘り、堤防も1.1mのかさ上げをしています。この工事に伴って堤に1周2850mの遊歩道が設けられ、また工事の際に伐採された桜の植樹もされました。現在では、市民の方々の憩いの場として、体力作りの場として活用されています。

2.狭山藩陣屋跡

 江戸時代には、豊臣秀吉に滅ぼされた北条氏政の孫にあたる北条氏盛が、狭山藩の初代藩主となり、この地を明治維新まで北条氏が治めました。その際の陣屋の上屋敷、下屋敷が下の地図のように置かれていました。

ともに狭山池に接していますし、中高野街道も通っています。やはり狭山藩内の一番大事な場所だったのでしょう。次ページに、上下屋敷の平面図を載せておきましょう。

敷地内に水路を引いていたことが分かりますね。また池があったことで、いい眺めだったのでしょう。現在は陣屋跡(上屋敷跡)として石碑の設置とともに整備されています。 
 下屋敷跡は、説明板によりますと、5代藩主の氏朝が宝永年間(1704年~1711に完成させたものです。この下屋敷の跡地は、後の昭和13年(1938)に「狭山池遊園」として開園されましたが、その後の戦争の激化により閉鎖されました。昭和34(1959)に「さやま遊園」として写真のように再開され、閉園した平成12年(2000)まで子どもたちを楽しませてきました。

 

 

 また、この幕末まで藩主だった北条氏一族は富田林市内の龍雲寺に眠っています。

 

さらに、この上屋敷の大手門は、明治時代に堺県庁として使われていました西本願寺堺別院の御成門として移築され、現在まで残されています。狭山藩の物で唯一現存する建造物でしょう。他市ではありますが、狭山藩の存在を意識させてくれるものが残されているのは有り難いことです。

 

3.大阪府立狭山池博物館

 平成13年(2011)に、狭山池の改修に伴って設立された博物館で、その設計は、世界的建築家の安藤忠雄氏によるものです。

 写真の側から入っていきますと、中央に棚田をイメージした水庭が広がっており、両サイドからは常時水が滝のように流れ落ちています。奥には円形の空間が造られていますが、この空間は狭山池を表しており、狭山池の水が棚田を潤している様子を表現しているそうです。滝は冬には凍ってつららとなることもあります。

 

    では、館内を覗きましょう。中は7つのゾーンからできていますが、メインはなんといっても狭山池の堤でしょう。

 池の改修時に高さ約18.5mの堤の断面をはがしてそのままを展示したものです。見る者を圧倒させます。

 下の写真の断面の説明を見ると、池ができた頃の堤の高さは、現在の3分の1程度だったことが分かります。

 また、これまでに何度も改修を繰り返してきたこともよく分かります。当初の堤のすぐ上に赤いっぽい色で被さっている部分が、行基による改修の跡で、約60cmの土が盛られたようです。

 見る者を驚かせるものがまだあります。それは、奈良時代に改修された木樋の実物です。平成の大改修で発見されたものです。

 1300年も昔の技術を現在、目にすることができるのに驚きです。


 そして、江戸時代。豊臣政権時代に官僚として名を馳せた片桐且元による改修の工事の跡ですね。木製枠工という仕組みで、堤にそってニ列の丸太を打ち込み、これを横木でつないで枠組をつくりその中に土を入れていくもので、堤が地滑りで崩れるのを防ぐ役割があるようです。

 このような、発掘によった実物による展示とともに、絵図・写真、模型、レプリカなどを用いて、古代から現代までの狭山池改修の様子を、詳しい説明を交えて理解が得られるように工夫されています。

 右は、奈良時代の改修された行基座像のレプリカ、左下は、鎌倉時代の改修をされた重源座像のレプリカです。右下のは、江戸時代の改修をされた片桐且元の肖像画です。且元は、この工事の後豊臣家を去って、徳川家に仕えることになります。

 

 博物館の外には、重源が使用した、古墳の石棺群の一部展示されています。

 博物館の入り口付近には、狭山池のみならず、石舞台古墳、高松塚古墳などの発掘調査、古代の武具に関する研究などを行い、我が国の考古学の基礎をつくられた末永雅雄博士の胸像が建てられています。狭山池畔に生まれた博士は、少年時代に狭山池で須恵器の破片を採集したことをきっかけにこの世界に踏み込まれたのです。その後、狭山町史の編纂、狭山町立郷土資料館の開設などにも尽力され、大阪狭山市名誉市民で、文化勲章受章者でもあります。文化勲章の受章を記念して、この胸像が建立されました。

4.高野街道

十三里石

西高野街道

 堺市内の大小路を起点として高野山女人道までのおよそ13里ある参詣道です。江戸時代の安政4年(1857)に茱萸木村の小左衛門と五兵衛により建 てられた里程石が、堺市の榎元町の「13里」をはじめに、大 阪狭山市内では、岩室に11里 を示す石が、東茱萸木には10里を示す石が残されています。

 また、岩室の11里石の少し南、岩室の交差点には、「西高野街道 直進 天野山 高野山」と掘られた道標が右のように立てられています。この道標の通りに直進していきますと、下の3つの石碑と出会います。

 左端のは「西高野街道」とあるように、今歩いている街道そのも のを示した道標です。

 

 真ん中のは「岩室郵便局跡」とあり、かつてこの地に同郵便局があったことを示す石碑が立っています。この郵便局は、我が国の郵便制度の創設者である当時駅逓総官だった前島密氏が、中林喜市郎氏に郵便局長が発令されたものです。また、この中林氏は、当時の堺県大鳥郡岩室村戸長でもありました。

 そしてこの中林氏は、嘉永5年(1852)2月に家塾を開設しその初代塾長を務めています。それを示すのが右端の「家塾跡」の石碑です。中林氏は、自宅で塾を開設し、その後郵便局まで開設されたのですね。なお、この家塾は、明治21年(1888)まで存続したようです。

 このまま少し南下すると、街道は2つに分かれます。その分岐点には、次の道標が立てられています。

 「右 あまの山二里 左 かうや山十里」と書かれています。「かうや山」とは、「高野山」のことなので、左に行ってみましょう。ちなみに、右は、天野街道にあたります。

 ここからさらに歩くと、やがて下り坂になります。この坂は「おわり坂」と名付けられたところで、三津屋川と出合った交差点に、下の写真の表示板が掲げられています。

 「おわり坂」とは何とも変わった名前ですが、この横に立てられた説明板を見ますと、この坂あたりを江戸時代に尾張藩の土木技術者が改修したことで、この名前がつけられたと書かれています。「狭山の地名五十話」によると、「おわり」というのは、地形が突き出しているところや開墾地につけられた地名なので、このあたりのムラのある台地が舌のように突き出していることから、名付けられたという考えも書かれています。

 しかし、古くから土地を開墾する時などに雇われる人々の集団を「おわり」と呼んでいたり、近隣の地域では、土木工事に専門の技術をもってかかわっていた集団を「おわり」と呼んでいたり、また江戸時代の記録にも「おわり」の人々が土木工事に携わっていたことが書かれていることなどから、結局、説明板の説明通りのように結論づけされていました。

左側の下り道が西高野街道で、
「おわり坂」と呼ばれている坂にあたります。

 さて、三津屋川」を渡り川沿いを少し歩くと、少し左方向に道が曲がって南下していきます。そのままちょうど茱萸木の地区の中を貫いて通っています。この「茱萸木」という地名は、「佐志久美岡」と呼ばれていた地域で、「久美」が植物のグミとの連想から、「茱萸木」の字が当てられて付いたと考えられています。

 そして最後は、茱萸木八丁目の草沢集会所の南で河内長野市に入っています。

 ところで、この西高野街道を歩くと見事に、至る所で「お地蔵様」と出会います。

 まずは、この写真のところですが、ここから「山本北」で、大阪狭山市が始まります。

 写真の左側が大阪狭山市で、右側は堺市です。この街道が堺市との境界になっています。

 

 まずは街道の堺市側ですが、中区福田にある三体の地と出会います。

このすぐ南の大阪狭山市側を少し東に入ると稲荷神社があります。

 少し南に行くと、やはり堺市側ですが、中区陶器北876の住所地の角で写真の地蔵と出会います。

 山本中に入ると、次ページの写真左端の地蔵が祀られています。

 

 

 

 

 この地蔵のすぐ南には、上の中央の地蔵が祀られており、その横には右の石碑が立てられています。この碑には「役行者」の文字が書かれており、大峰山供養塔だそうです。

 南下を続けましょう。山本南との境近くに来ました。ここには、やはり堺市側に二体の地蔵が祀られています(下の左の写真)。

 

 山本南に入ると、上の写真の大平大明神が祀られており、その右手前には次ページの地蔵2体が祀られています。ちょうど山本地区の集会所のの横ですね。

 

さらに南下を続けます。

 山本地区の地車小屋を右側に見て南へ向かうと、すでに掲載した「十一里石」が岩室3丁目に立っています。

 そして、その先には、これも前述した岩室交差点の道標です。その横にある歩道橋をこえると石碑と道標が立っています。

 おわり坂の下には「牛瀧地蔵」が立っています。この牛瀧地蔵は、田畑を耕す牛の健康を願って農家が信仰した地蔵だそうです。

 三津屋川を渡り南南東に進むと、茱萸木3丁目と4丁目の境に「三津屋地蔵」が立っています。

 さらに南下を続けると、街道は左方向にカーブしながら左折をします。その左折するところの突き当たりに、1体の地蔵が立っています。

 

 

 

 左下の左の写真の左端にその地蔵小屋が写っているでしょう。

 

 次の交差点に写真の地蔵小屋があり、そのすぐ左には次のページの上の写真「弘法大師御堂建之」と書かれた石碑が立っています。

 

 

 

 地蔵小屋の中には計4体の地蔵が祀られています。左側には「夜泣き地蔵」と「大峰山行者」が、右側には「子安地蔵」と「一願地蔵」が祀られています。

 

 

 

 

 どんどん南下しましょう。左側奥には「正法寺」があり、その境内に「子安地蔵」が祀られています。

 この正法寺への入り口には、「正観世音菩薩」と書かれた碑と常夜灯が立っています。常夜灯は、おそらく正法寺の境内に、かつて観世音菩薩をお祀りしていた神社があって、その神社に奉納されたものではないかと想像されますね。

 

 まだまだ南下をします。立派なお屋敷の南に、これも立派な地蔵小屋がみえてきます。この小屋の中に社を置き、その中には「玄昌法師地蔵」が祀られているのです。

 ずーっと南下をし続けますと、東茱萸木7丁目にはすでに紹介した「十里石」が立っています。これで先の「十一里石」からおよそ4km南下したことになります。

 その少し南には、河内長野市との境界近くに、最後の地蔵が立っています。草沢集会所の前にある「おため地蔵」です。台座には「移設 平成26年5月18日」と書かれており、それまではこの近くに立っていたのでしょう。

 この地蔵の先には小さな川が流れており、この橋を渡ると道は途切れて、西高野街道はそこで寸断されます。その先には再び街道が姿を現します。

 

下高野街道・中高野街道

 ともに大阪市内の天王寺付近から発した街道で、下高野街道は、南海高野線狭山駅の北側から狭山池の北西・北堤付近を通り、狭山橋で中高野街道と合流しています。

 このあたりの路上には、有り難いことに説明板まで貼られており、歩いておれば一目でそれと分るように工夫されています。

左の写真が合流点で、左上から下高野街道が、右上からは中高野街道がきています。小さい橋が狭山橋です。

 

 

 ところで、前々ページの地図の「現在地★」付近には、かつて「狭山新宿」という集落があり、狭山池を管理した樋役人の屋敷が建ち並んでいたとのことです。

 さて、さやま橋から東に進むと、府道198号線に出ます。この交差点の半田交番所の北側に、「子安地蔵尊」と彫られた石碑が建っています。天保11年(1840)に神に神南邊道心が建てたものです。神南邊道心は、江戸時代の鋳物師でしたが、素行が悪く 荒れた生活をしていま した。しかし僧であった息子の言葉で改心して僧となり、諸国をめぐって地蔵や道標を建てたり橋を架けたりしました。その1つが、この道標なのです。

 そこから東に向かいますと、大阪狭山市駅に出ます。

 踏切を渡ったところにも、江戸時代の道標が立っています。「右かうや 左よし乃道」と書かれています。その道標のすぐ前には新しい道標も立っており、読みやすく、現代の方々にも大いに役立っていることでしょう。

 

 

 

 

 この道標の示すままに、南海高野線に沿って南下をします。しばらく歩くと、踏切(下の写真)を越えて線路の西側に出、そこからまた線路に沿って南下を続けます。

 イオン金剛店の前を通り南下をすると「中高野街道」と書かれた木碑と説明板とが立っています。説明板によりますと、

 中世の城である半田城が狭山神社境内を含めたその周辺にあり、1337年に南朝方の高木遠盛が戦っていたとのことです。

 

 

 この木碑からすぐに金剛駅前(西側)に出ます。

 駅前の開発で、中高野街道は分断され、駅前バスターミナルの南側からこの街道は再開することになります。このあたりから「狭山神社の杜」をみてみましょう。街道に背を向けた格好で杜があるのが分かります。写真の横断歩道がほぼ街道にあたります。

 この後南下を続けると、半田2丁目で富田林市に入っていきます。前ページの住所表示板はほぼ同じ場所に設置されていました。

 

 

 

 中高野街道も、西高野街道ほどではありませんが、 地蔵などが立っているのでみみましょう。

 まずは、これ。中高野街道の北端です。右側に見える電柱には、下の写真のように、「東野」と「黒」と書かれたプレートが貼られています。まさに、堺市との境目を表していますね。東野西4丁目にあたります。

 さあ、ここから南下を始めます。東野の交差点まで来ると、菅生神社の鳥居の横に、右の道標が立っています。右側には「當社菅生天満宮」と、左側には上の二文字は読めないのですが、その下には「三日市 高野山」と書かれています。慶応2年(1866)に建てられた道標です。

 南下をしますと、下の写真のように分岐点に出ます。道路が分かれた左側が街道です。この分岐点のすぐ南に、下の地蔵様がお祀りされたた祠があります。元々は、この分岐点に立っていたものかも知れません。この分岐点のところには、もう1つ、下のように、用水路がいくつにも分かれてそれぞれの田に水を引くシステムが造られています。

 

 

 南下をします。東野公民館の前の交差点付近に、下のページの常夜灯が立っています。

 

 

 

 天明8年(1788)に建てられたもので、おそらく菅生神社参道を示すものとして立てられていたものではないでしょうか。

 

 

 さらに南下をします。東野中1丁目に入ったところで、道は再び分岐します。左を通ると大鳥池に沿った道で、右が街道です。

 街道側を歩きますと、左には、大鳥池越に金剛、葛城の山なみが見えてきます。池尻4丁目付近です。

 青葉丘病院を過ぎると、街道は南海高野線をこえて西側を通ります。狭山中学校を左に見て水路に沿って歩いていくと、半田交番所のある交差点に出、その角には、法恩寺が建っており、道路を渡たところに、地蔵が立っています。その横には、法恩寺の説明板があり、そこには、堂内にある「恋坂地蔵」は、止利仏師の作と伝えられている旨、記されています。

 

 そこから先は、写真のような状態で歩くことはできません。この草むらを出たところで道は東に向かいます。

 それが左の写真で、再び先ほどの道路に出ます。道路を渡ったところに、少し前に掲載した「子安地蔵」と書かれた石碑が立っています。

 その先には「壺井家本宅跡」が空地として残されています。この坪井家は、文化12年(1815)に江戸で医学を学んだ壺井純庵が初代で、この地(新宿)に住まいを構えていました。

大阪狭山市駅前に出て、踏切を渡り南下を続けます。踏切付近には、道標とともに地蔵が立っています。

 その後、金剛駅を左に見て更に南下をつづけると、左の写真の常夜灯に出会います。おそらく狭山神社参道のものだったのでしょう。

 

 

 

 

 半田2丁目までくると、「風輪寺」があります。このお寺には、たくさんの地蔵が祀られていますし、こんなかわいらしい小坊主さんの石像まで建っています。

 

 

 この先はもう富田林市に入ります。

 右の写真が両市の境界です。

 

 

 

5.天野街道  

 前半でもでも触れましたが、堺市との境界上にある街道です。岩室で西高野街道と分かれて陶器山の峰を南下していきます。西側には堺市の泉北ニュータウンが、東側には狭山ニュータウンが広がっており、最終地は、奈良時代に僧行基が開いたとされる天野山金剛寺です。
 近年、この街道も整備されて、近隣の方々が散策さ れている姿によく出会います。
 また、陶器山は、貞観元年(859) に、和泉国と河内国との間でこの山 の薪をめぐっての訴訟が起こりました。当時このあたりでつくられていた須恵器を焼くための薪の取り合いをしたのです。結果は、和泉国の勝利で、河内国は敗訴しています。

2011:天野山街道から見た狭山ニュータウン

  右は、大阪狭山市と堺市、河内長野市3市の接点にある地 蔵堂です。天野街道の大阪狭山市内の最終地です。
 右手前:堺市南区畑、右奥:河内長野、左:大阪狭山市です。

 

 

6.高野鉄道の開通
 南海高野線狭山駅から線路沿いの道を南に歩いていると、下のような桜並木が見えてきます。植わっているのは、線路を敷いている土手部分です。この並木のす ぐ南に、下の写真の土手をくぐる暗渠があります。人や自転車がよくくぐっているのを見かけます。
 南海高野線(旧高野鉄道)は、明治31年(1898)に大小路(現・堺東)―狭山間で開業していますが、すぐに河内長野まで伸ばされました。その際に、地元住民 が、地区が分断されるだけでなく、牛を田畑に連れて行ったり、重い荷物を担いで運んだりするのに困るとの意見書を出したことから、このような暗渠を造って住民の要望に応えたようです。西側は写真のようにレンガを積んで造られていますが、東半分はコンクリート造りとなっています。これは、敷設当時は単線だったのが後に複線にする際に、東側に線路を敷設したためにコンクリート造りになってしまったとのことです。
 なお、この暗渠は「一号暗渠」と呼ばれ、これをはじめとして、大阪狭山駅に向かって合わせて7か所も暗渠が設置されています。他の暗渠も見てみましょう。
 二号暗渠です。こちらは、水路まで通っています。この暗渠の 特徴は、アーチと土台のレンガとの間に石が挟まれていること ることです。これは、レンガよりも強い力に耐えられるようにとのことで石を挟んでいるのです。

 さて、続いて三号暗渠です。こちらの暗渠では、水路に蓋をして通しています。先の2つの暗渠と違って農作業用の車両も通れるように高さと幅とを確保しています。水 路の蓋で、道幅を広げているのです。

 

 四号暗渠です。こちらは、水路専用の暗渠で、人は通れません。右下の写真のように、暗渠を覗くと水面に上の景色が写っています。

 五号暗渠です。ここは府道富田林狭山線の道路が通っています。唯一、自動車が通れる暗渠です。

 

 

 

 六号暗渠です。水路だけではなく人も通れるように は造られているのですが、身をかがめなくては通れな い程の低さです。地元からは、もっと高くして欲しい旨の要望が出されましたが、金銭補償で解決したようです。
  写真のように東側の水路とつながっています。
 最後の七号暗渠は、水路専用の暗渠で、植物が生い茂り暗渠自体が見えにくくなっています。
大阪狭山市立郷土資料館発行の「狭山を変えた鉄道」掲載の写真(左)を見ると、白黒ですがよく分かりますね。

 

3つの駅

狭山駅

  高野鉄道の開通した明治31年(1898)に狭山駅は開業されました。開業当時は蒸気機関車が走っていました。

 現在のように駅舎が線路をまたぐ橋上駅となったのは昭和48年(1973)のことで、それまでは、線路を渡って反対側のホームに行っていました。

大阪狭山市駅

  開業は、大正6年(1917)のことで、当時は、「河内半田駅」という駅名でした。

  昭和13年(1938)に狭山池遊園が開園し、この駅が最寄り駅となったのです。戦争により一時休園し、昭和24年(1949)に再開しますが、それに伴い翌年に駅名を「狭山遊園前駅」とあらためました。その後、平成12年(2000)に閉園するまでこの駅名が続きます。大阪狭山市と南海電鉄との協議を経て、同年12月から現在の「大阪狭山市駅」になったのです。


金剛駅

 開業は昭和12年(1937)です。同年に現在の金剛団地付近が、四国八十八箇所霊場の出開帳の第二会場となり、仮堂を設けました(金剛園)。これにちなんで、この駅名が付けられています。

 

 

昭和44年(1969)に、現在の橋上駅となりました。これは、狭山ニュータウンや金剛団地が開発されたことによるものです。

 

 

 

7.2つの神社と他の神社

狭山神社

 創建の年代は不詳ですが、崇神天皇の勅願により、狭山池築造以前に創建されたといわれています。天照大 神と素盞鳴命を主祭神としていますが、明治の合祀令に基づき、明治40年(1907)には狭山堤神社、八雲神社を、明治42年には狭間神社を合祀しています。

  

狭山堤神社

 南北朝の動乱で社殿が焼け、現在の社殿は、室町時代中頃の明応2年(1493)の再建と推定されています。

  また、合祀されている狭山堤神社は、元は、狭山遊園内の松林にあり、狭山池の鎮守の神様として祀られていました。

 

三都神社

 熊野神社とも呼ばれているこの神社は、皇極天皇(642~645)の時に創建されたと伝えられ、享禄年中

(1528~1531)に兵火で焼失しましたが、天文15年(1546)に再建されています。

 かつてこの地にありました金蔵寺の鎮守として、熊野三山の神を勧請し、そこにおかれた熊野神社に三都村内(岩室、山本新田、茱萸木新田。西山新田、大野新田)にあった八社を、明治時代に合祀して創建された神社です。この神社のあったところを「今熊野」と呼んでいましたが、「野」が省かれて「今熊」と呼ばれる地名となったようです。

 なお、今熊7丁目で西高野街道と天野街道とが分岐しており(写真の道標)、天野山金剛寺のみならず熊野詣でへの参詣道として賑わっていたこともあり、熊野三山の神を勧請するきっかけになったのだろうと考えられています。

 

 

 

龍神社

 「竜神」とは、農耕生産と結びついて、水をつかさどる

 神様とされており、池や淵に住んでいると考えられてきました。狭山池でもかつて干ばつで農作物が大打撃を受けた際に、農民たちがこの龍神社をお祀りしたと伝えられています。

 

水天宮

 狭山池の東、さやか公園の南東角にあります。水天宮というのは、水神か水神と関係のある神を祀っている神社です。

 まさに狭山池に住む神で、灌漑用水や堰の守護神です。

 雨乞いの際に崇拝される神様をお祀りしているのです。

 ここからは、詳細は不明の神社です。

池之原神社

 池之原4丁目にある神社です。高森大神、戎大神が祀られています。

 

 

 

 

弁財天

 山本東にある神社です。

 

 

 


茱萸木八幡宮

 茱萸木6丁目にある八幡宮です。天照皇大御神、愛宕大権現、稲荷大明神も合祀されています。

 

 

 


賽の神
:大野台

今から390年ほど前に新田開発された茱萸木地区に、他界からの邪霊疫神から守るためにこの神を祀ったことが始まりです。

 


狭間神社

 池尻中にある神社です。

 

 

 


太満池の水神

 

 

 

 

 

8.狭山ニュータウンの開発と学校

 昭和36年(1961)度に計画が立てられ、昭和48年(1973)に、狭山ニュータウンの造成が始まりました。

 標高130m~150mの丘陵地で、写真は西山台の開発の始まった頃のものです。右下が北にあたります。

 全230haの面積を北から南へと造成されました。当初は5000戸2万人規模の街を計画していましたが、最終的には、6000戸2万4千人へと修正されました。分譲は昭和43年(1968)に始まりました。

 左の写真は、西山台の造成がほぼ完了した頃のものです。左下の黒っぽいところが、帝塚山学院大学です。

 昭和44年6月1日に最初の2世帯が入居され、7月には、さまニュータウン第一センターが開業しています。

 地図で地形の変化を見てみましょう。

  右の写真は、第一センター(現・南第一小学校前)付近の現在の様子です。南から北方面を撮影していますが、下り坂になっているのが分かります。

 


 昭和45年(1970)に大野台での分譲が開始され、9月1日の2学期開始時には、南第一小学校が開校しています。

 ちなみに、南第二小学校は 昭和49年4月1日の開校で大野台の南側に、南第三小学校は、昭和52年4月1日の開校で、西山台の西端に創設されました。

 左の写真が第二小学校、下の写真が南第三小学校です。

 

 


 狭山ニュータウンには、平成28(2016)12月末で、約7100世帯、約15,500
人の方が暮らしています。   

 小学校が出ましたので、ニュータウン以外の小学校も掲載しておきましょう。

 まずは、狭山東小学校です。この小学校は古く、学制発布の明治5年(1872)に、狭山藩陣屋跡地に 創設されました。

 その後、尋常高等小学校、国民学校を経て、昭和22年(1947)に狭山小学校となっています。

 現在の東小学校となったのは、昭和62年(1987)に北小学校が分離したときからです。

 狭山西小学校です。明治18年(1885)、今熊小学校と茱萸木小学校とが合併し、大野分校を加えて、三都小学校として創設されました。

 

 

 狭山北小学校です。昭和62年に、狭山小学校から分離して創設されました。

 



 
 最後は、狭山第七小学校です。

 市内では一番新しく、平成2年(1990)に、東小学校と西小学校から分離し、創設されました。

 

 これらの4校は、狭山池を囲むように設置されていますが、狭山ニュータウンを除き、もともとあった村の周辺が、どんどん小学校の設置された順に地域が開発されていったように感じます。

続いて中学校

 まずは、狭山中学校です。

 昭和22年(1947)に、狭山村立第一中学校が三都小学校内に、第二中学校が狭山小校内に創設されました。昭和26年(1951)に両村が合併して狭山町となり、それに伴って第一中と第二中とを統合して創設された学校です。狭山藩陣屋跡に接しており、狭山池を管理する樋役人が住んでいた「新宿」と呼ばれる地域に建っています。

 東小学校区と北小学校区とを校区にしています。

  狭山南中学校です。狭山ニュータウンの開発による人口増で、昭和47年(1972)に西山台、大野台、茱萸木、今熊、大野、岩室を校区として、狭山中学校より分離し創立しました。

 昭和56年(1981)に第三中学校の分離により、大野台、西山台4・5丁目、大野が校区となりました。

 狭山第三中学校です。

 昭和56年(1981)大野台の建設に伴い、南中学校の生徒数が増加したことで創設されました。

 

 

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