錦西小校区の史跡

 

 

堺市立錦西小学校

〒590-0938 大阪府堺市堺区神明町西2丁1−1

 

 

 

 

 

 

 

 

1.「かいせん政所まんどころ跡」石碑:桜之町西

 室町時代に、この石碑のあたりに大きな屋敷がありました。管領家の細川氏の後見として、阿波の三好長輝が京都に近くて阿波に渡るのに都合のいい堺に館を建てました。孫の元長の時の1521年に完成し、「政所」の名をもらいました。規模は東西約650m、南北はその倍はあったと伝えられています。

 

 

 

2.「此附近三好氏海舩館跡」石碑:錦之町西

 「1」の建物は大きく、この石碑のところまでありました。「1」の石碑と同じ屋敷を示しています。

 この建物の中央には高楼があり、ここから四方を監視し、何かが起こると太鼓で知らせたといいます。三好一族の摂河泉の本城の役割であったようです。

 

 

 

3.「千日井」石碑:七道西町

 南海本線七道駅の東に石碑と古い井戸があります。奈良時代に行基が掘った井戸だと伝えられています。

 日照りが続いてもこの井戸水は枯れることがありませんでした。それで、この井戸は「千日井」と呼ばれていたのです。

 

4.「風間堂」:並松町

 1615年の大坂夏の陣で、豊臣方によって堺の町は焼き尽くされました。この堺の町を復活させるために、徳川家康は新たな町割りを風間六右衛門に命じました。熱心な日蓮宗徒だった六右衛門は、日蓮宗の寺地を広くとったために、他宗派のお寺から苦情があり、寺社奉行が六右衛門に江戸への出頭を命じたところ、堺の町を出たところで切腹をしました。それを悼んだ人たちがお堂を建てたのです。

 

5.鉄砲鍛冶屋敷:北旅籠町西

 種子島に伝わった鉄砲の製法を、堺の商人橘屋又三郎が伝え、堺の鉄砲生産は日本一になりました。この鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代から続く鉄砲鍛治井上関右衛門の居宅・作業場・店舗でした。堺の町家建築としても最古のものの一つで、鉄砲の生産場所が残されている建物としても貴重なものです。現在は市の指定有形文化財になっています。

 

6.「榎並屋えなみや勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡」石碑:桜之町西

 1695年に、桜之町の芝辻理右衛門、榎並屋勘左衛門、芝辻長左衛門の3人が鉄砲鍛冶の元締めとして鉄砲鍛冶たちをまとめていました。

 芝辻家は家康に命じられて銃身3mの大筒をつくっ たり大坂冬の陣では500丁もの鉄砲をつくっておさめたりしています。

 

 

 

7.清学院:北旅籠町西

 山伏が町に住むようになって、1573年に開かれたお寺です。不動明王坐像が本尊で、弘法大師や役行者などが祀られています。ここで、江戸時代後半から明治時代の初め頃まで「清光堂」という寺子屋も行っていました。この寺子屋で河口慧海も1871年に6歳で学んでいます。

 

8.「河口かい生家の跡」石碑:北旅籠町西

 河口慧海は、チベットというヒマラヤの麓に広がる 国に入ってお経の元を手に 入れた人です。15歳で釈迦一代記という本を読み、僧侶を目指します。お経の元を手に入れるために、チベット語を学び、荷物を背追って一人でヒマラヤを越えて4年をかけてラサの町に着きました。当時のチベットは鎖国をしており慧海は見つかって殺されかけました。

 

 

 

9.常夜灯跡:北半町

 この常夜灯跡の石碑 が1つ建てられているだけです。何の説明も書かれていませんが、江戸時代に、この堺の町の北端に常夜灯が設置されていたのでしょう。

 

 

 

 


10.内田家住宅:北旅籠町西

 明治10年(1877)の造り醤油の商家です。吹き抜けの台所(写真)で、2階奥の座敷には壁一面の箪笥があります。これは明治時代のもので横366cm、縦73cmもあります。中には、醤油屋時代の大福帳など、大事なものが保存されています。現在のご当主の内田氏は、戦後にこの住居を引き継がれたそうで、住宅の公開にも貢献されています。

 

 

 

※内田家住宅内部

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