堺市立少林寺小学校
〒590-0963 大阪府堺市堺区少林寺町東4丁1−1
1330年に桃源宗悟が開山した「小林寺」です。後に「小」を「少」の字に改めています。1381年、白蔵主が稲荷明神に参籠して「霊狐」を得、その所作を狂言にして「釣狐」を作り、上演しました。現在でも、狂言や歌舞伎で「釣狐」を上演する際には、この寺を参詣して技芸の上達と上演の成功を祈願して、寺内の逆芽竹を祈祷してもらい、舞台で杖として使用する慣習になっています。
畿内で勢力のあった三好長慶は、1557年に父親の元長の菩提を弔うために南宗寺を建てました。沢庵和尚は大坂夏の陣で全焼したこの寺を1617年から3年かけて再建しています。写真は「甘露門」で、1647年の建立で、現在、国の重要文化財に指定されています。
3.三好長慶公坐像(南宗寺)
「2」でも書きましたが、南宗寺を創建した阿波の国を本拠とする武将です。一時は畿内11か国領有する勢力をもっていた戦国大名で、堺の町を足がかりにしてその勢力を拡げていきました。当時の武将としては一流の教養も有しており、文武にたける武将として再評価されつつあります。
大坂夏の陣の際に、駕籠で堺にいた徳川家康は、豊臣方の後藤又兵衛に呼び止められ、槍で駕籠を一突きされました。その時、家康は槍先の血を着物で拭き取ったために、又兵衛は自分が感じた手応えは勘違いかと去っていきました。大きな傷を抱えた家康は2、3日隠れていましたが、傷が悪化して命がなくなり、この南宗寺に葬られたのです。ここに家康の墓があるのはそのためです。
5.千利休一族の墓(南宗寺)
千利休は田中与四郎といい、魚屋(ととや)の息子です。武野紹鷗に師事し、茶を学んでいました。織田信長の茶頭に位置づけ秀吉にも認められます。侘びの心を追究しきって我が国の茶道を大成し、3畳の中に1つの世界を創り出し、太閤といえどもその力に屈服させることはできませんでしたね。
6.三好一族の墓(南宗寺)
三好一族は、阿波の国の三好郡の東端が本拠地で、15世紀の末頃はまだその地位も低いものでした。16世紀の初めの之長の時代に認められだしました。南宗寺を建てた三好長慶は、之長の曽孫にあたります。之長以降、阿波から京にのぼるために堺を通ることが多くなり、堺の北方の海沿いに海船政所をつくるなど、堺への影響を大きくしていったのでしょう。
7.武野紹鴎の供養塔(南宗寺)
武野紹鷗は、村田珠光から茶の湯を学びました。珠光の説く「不足の美」を感じ取り、茶の湯の簡素化を図り、「侘び」を具体的に表現しました。堺にもどり千利休や今井宗久らに茶を教えました。
8.枯山水(南宗寺)
南宗寺の名物はやはり枯山水でしょう。国の名勝庭園にも指定されている庭ですが、全て石組みで水の流れが表現されています。奥の山から流れてくる水の流れが、次第に大きな川となり、最後は海となって広がっていく様子が見えてくるでしょう。途中に置かれている石は、島であったり船であったりと、見る人の心持ちで変わってくるようです。第二次世界大戦で、この枯山水も失われてしまいましたが、戦後残された石組みから復元されました。
9.八方睨みの龍(南宗寺)
南宗寺の仏殿の天井には龍が墨で描かれています。御用絵師の狩野信正によって描かれたもので、仏殿のどこからこの龍を眺めても睨まれているように見えることから、「八方睨みの龍」と呼ばれています。なお、仏殿は1653年建立で、国の重要文化財に指定されています。
10.坐雲亭(南宗寺)
南宗寺で一番古い建物です。1615年の元和の町割りで堺の町が蘇りましたが、その復興の様子を見るために、1623年の7月に徳川秀忠が、同8月には家光が堺を訪れています。この坐雲亭の2階から堺の町を眺めたことが書かれて残されています。また徳川家の葵の紋入りの軒瓦があり、徳川家と堺とのつながりを彷彿とさせてくれています。
11.襖絵「枝添えの松」(大安寺):南旅篭町東
この寺の本堂は、元は呂宋助左衛門の屋敷であったと言われています。その本堂に「枝添えの松」と呼ばれている襖絵があります。狩野派の絵師がこの寺で松の絵を描いて江戸に向かったところ、鳴海(現在の愛知県)というところで松を見て、一枝描き忘れていることに気がつきました。そこで大安寺に戻って小枝を描き再び江戸に向かわれたのです。そこで「枝添えの松」呼ばれるようになりました。
1332年に創建されたお寺で、大坂夏の陣で焼失後、開口神社付近から現在地に移り再建されました。門をくぐると門廊が正面にあります。左には本堂と庫裏とが一棟の建物にあるという江戸時代初期の建築としては珍しいものです。現在、本堂、庫裏、門廊は国の重要文化財に指定されています。
13.今井家累代の墓(臨江寺):南半町東
もと臨江庵といっていました。南宗寺の塔頭の一つでした。1652年に、今井宗久の孫の兼続が今井家の菩提を弔うために開創されたのが、この寺の始まりです。境内には、今井累代の墓だけでなく、武野紹鷗の墓、曽我兄弟の供養塔、兄十郎の恋人の虎御前が石になったと伝えられる「とらご石」なども置かれています。
14.旭蓮寺:寺地町東
中国の白蓮社で天台宗を学んだ澄円は、1330年に白蓮社を真似て堺の浜に旭蓮社を開きました。境内には蓮池があり、これも白蓮社を真似たようです。明治4年(1871)には国有地となり、大阪裁判所堺支庁の庁舎となっています。明治26年には旭蓮社に戻されていますが、昭和20年の堺大空襲で焼かれ、かろうじて毘沙門堂だけが残されました。
1399年に足利義満と堺で戦った大内義弘が創建したお寺です。山号は「義弘山」というところからも、お分かりいただけますね。現在は、大内菱の紋の入った瓦が一部残されており、往時がしのばれます。また、「水の寺」とも呼ばれ、 境内に「妙光寺井」という名水があることでも有名です。
「7」のところでも書きましたが、武野紹鷗は千利休の師でした。1502年に奈良で生まれ後に堺に移りました。利休が与四郎と呼ばれていた頃、紹鷗に弟子入りを願ったときに、紹鷗はごみ1つない庭を掃除させました。与四郎が木をゆすって落ち葉を散らし、庭に風情を出したことに感心して弟子にしたそうです。
「熊野小校区の史跡」で屋敷跡の碑を紹介しましたが、少林寺校区の妙法寺にはその供養塔があります。新左衛門は頓智にすぐれ、秀吉の御伽衆をしていましたが、秀吉の前でお ならをして秀吉に叩かれました。その時「おならして、国二ケ国を得たりけり 頭はりまに尻はびっちゅう(備中)」という歌を詠み、秀吉をとても喜ばせたということです。(中国攻めのときです)
18.北向道陳の墓(妙法寺)
堺の舳松町北向に住む茶人ですが、本職は医師であったようです。千利休に茶の湯を教え、利休を武野紹鷗に推薦して弟子入りさせました。茶道具の目利きとしても知られ、信長に献じた松花の茶壷などの名品をたくさん持っていました。紹鷗の「わび茶」に対して、「書院の茶」を伝えていたとされています。
19.引接寺跡:少林寺町東
1347年に創建された古いお寺です。堺の商人の三宅十五郎が父親の病気の回復を住吉神社に祈ったところ、お告げで得た阿弥陀仏を拝みました。父親の病気が回復し、この寺を建立したと伝えられています。創建当時は現在の宿院町西付近を中心に広大な敷地を有していましたが、その後移転をして、江戸時代には少林寺小学校の敷地あたりに再建されたようです。
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