2 むかしの堺の町をめぐる2

 今回は、のこった堺について書いていきましょう。

 第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんで昔の堺が焼けてしまったことは、前回に書きました。しかし、かろうじて北部だけは焼け残ったことも書きました。

 この北部を歩いていると、古く細い道すじとともに古い建物たてものも数多く見られます。このあたりに、むかしから刃物業はものぎょういとなんでおられた家が多数ありました。「鍛冶かじ」「ぎ」「柄付えつけ」「販売はんばい」などと、種類しゅるいに分かれて家内かない工業こうぎょうで行われていたのです。現在でも何げんかは刃物業をされておられます。一人ひとりが専門せんもんとしている仕事については、その技術ぎじゅつとプライドとをもって仕事をなさっておられます。

 なぜ、このあたりに刃物はもの業者ぎょうしゃが集まったのでしょうか。それは、戦国せんごく時代じだいにまでさかのぼります(鍛冶かじ職人しょくにんとしては古墳こふん時代までさかのぼることもできるかもしれません)。今から五百年ほど前のことです。刀ややりで戦争をしていた時代に、西洋から入ってきた鉄砲てっぽう(火なわじゅう)で戦争の形をえていきました。その火なわじゅうを専門に造っていたのが堺の職人だったのです。それがちょうどこの堺の北部一帯で、榎並屋えなみやかん衛門えもん芝辻しばつじ衛門もんなどの鉄砲てっぽう鍛冶かじが仕事をされていたのです。

 江戸時代になっていくさがなくなると鉄砲も必要ひつようでなくなり、とりなどをうつための火なわじゅう造りとして技術が残ります。また、わが国に入ってきたタバコをきざむための刃物が必要となり、当時の堺にあったカミソリを作る技術をもとにしてタバコ庖丁ぼうちょうつくりに生産が変わっていきました。これが、現在の堺の庖丁ほうちょうつくりに受けつがれていきました。

 堺の庖丁は、世界的にも技術がすぐれ、切れ味がとてもよく、調理師ちょうりしさんなどはきそって堺の庖丁を手にして、料理を作っています。切れ味を良くするために、刃物の地金じがねにとてもかたはがねを くっつけて打ち 込みとき入れ とをり返して います。それを いくつものと石 を使って何度も ぐことで、カ ミソリの刃のよ うな切れ味を出 しています。

 現在では後つ ぎ不足が大きな 課題かだいです。

泉北部の紀州街道

 

 

 

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