22 石津いしづ風車ふうしゃ

 前回の船待ふなまち神社からさらに紀州きしゅう街道かいどうを南へ歩いていきましょう。新湊しんみなと小学校の前には、下の写真しゃしんのような風車がっています。なぜこんなところに風車があるのでしょうか。

新湊小学校前の風車

 現在の新湊小学校から浜寺はまでら石津いしづ小学校にかけて、かつては多くの風車が立っていました。私の小学校のころに、南海なんかい本線ほんせんって堺駅からはまでら公園こうえんの方に向かうと、電車の東の方のまどから風車がたくさん立っているのが見え、「ああ、石津に来たんだな。」と思ったものです。

 今から百年ほど前(大正時代末)、このあたりではミツバやホウレンソウなどの野菜を作っていましたが、多くの水を井戸いどからくみ上げるのが大変たいへんなしごとでした。

 もともとここの土地は砂地すなじで、4~5メートルもほると多くの水が出てきたのです。しかし、はねつるべを使って何度なんども水をくみ上げなければなりません。もっと楽に水をくみ上げる方法はないものかとなやみつづけていたのでしょう。ある時、オランダの風車をヒントに地元じもとの和田忠夫ただおさんが、海からふく風を受けて井戸水をくみ上げる風車を考え出しました。これが石津の風車の始まりです。

 風車がくみ上げた水を横のプールにためて、人はその水をたんごですくい、畑に水をあたえるだけでよくなったのです。水を井戸からくみ上げなくてもいいので楽です。

 この風車は、昭和22(1947)年には350にもなり、このあたりをうめつくしていました。石津の町は、大阪市に近く、野菜やさい新鮮しんせんなままでたくさんはこぶのに便利べんり場所ばしょだったので、一気に風車による地下水ちかすいのくみ上げが始まったのでしょう。私の子どものころもこれと近い時代だったので、風車があるのが当たり前だったのですね。

 ところが、昭和33(1958)年ころから、臨海りんかい工業地こうぎょうち開発かいはつで、海のうめ立てが始まったのです。そのために、このあたりの風景ふうけいわってしまいました。今までの畑は住宅じゅうたく工場こうじょうにかわっていき、畑がどんどんすがたをすとともに風車もいつのまにか見ることができなくなっていきました。

 石津の地域ちいきを示す一つの風物詩ふうぶつしだったのでが、おしいですね。

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