45 たかくら

高倉寺

 今回からしばらく、泉北せんぼく方面ほうめんを歩きましょう。泉北せんぼく高速こうそく鉄道てつどう泉ヶ丘駅いずみがおかえきから南東の方に向かいます。そこからワシントンヤシが高くそびえている道路を南に歩いて行きましょう。左手に「高倉寺」のかん板が見えてきます。そのおくにこの寺はあります。

 この寺は、慶雲けいうん2(705)年に文武もんむ天皇てんのうめいそう行基ぎょうきがつくったことが始まりです。行基といえば、49のお寺をつくられたことは前にも書きました。この寺もその一つです。平清盛たいらのきよもりむすめけん礼門院れいもんいん徳子とくこ)の夫である高倉たかくら天皇てんのう(1168~1179年)がこの寺に来られ、「大修おおす恵山えざん天王院てんのういん高蔵寺」の山号さんごう寺号てらごうをさずけられたことから、「高倉寺」とよばれるようになりました。

 山号の「」というのは「須恵すえ」で、須恵器すえきのことから名づけられたようです。おそらく、このあたりで須恵器という焼物やきものが作られていたのかもしれません。

 須恵器というのは、古墳こふん時代じだい(今から1500~1600年前ごろ)ごろから朝鮮ちょうせんから伝わってきたのぼがまで焼いたかたい土器のことです。泉北ニュータウンをつくるときに、このあたり一帯いったいをほっていますが、そのときに須恵器のかけらがたくさん出てきています。

宝積院

 高倉寺には、たくさんの子院しいん(高倉寺にふくまれているお寺)がありましたが、織田おだ信長のぶながかれてしまいました。てんしょう年間(1573~1592年)には金堂ができ、慶長けいちょう年間には陶器とうきむら陣屋じんやをおいた小出こいで大隅おおすみのかみがおどう修理しゅうりなどを行いました。

高倉寺宝起菩薩堂

 

 

 しかし、明治時代になって廃仏はいぶつ毀釈きしゃくという仏と神とをきりはなすほうしんが、お寺をこわす運動として全国に広がり、高倉寺も多くのお寺がこわされて宝積院ほうしゃくいんのこすだけとなりました。境内けいだいの土地も多くがうしなわれてしまいました。

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