48 小谷こたに城址じょうし

 前回の法道寺から泉北<rt(せんぼく一号いちごうせんまでもどり、泉ヶ丘方向に歩き、若竹わかたけ大橋おおはし左折させつしてニュータウンに入っていきましょう。左側の高台にはん第一だいいち泉北せんぼく病院びょういんが見えてきます。この病院の敷地内しきちないに「小谷城址」があります。

小谷城址

 お城といっても大阪城のような天主閣てんしゅかくをイメージされるとこまります。泉北ニュータウンをつくるために山の東側の半分がけずられて今は小さくなりましたが、この山(高さ80メートル)に寛喜かんき3(1231)年にとりでのようなお城がてられたといわれています。

 源頼朝みなもとのよりとも義経よしつね平清盛たいらのきよもりにとらえられたとき、清盛の継母けいぼであるいけのぜんがこの二人の命乞いのちごいをしたために助かりました。その後、頼朝が成人して平氏をほろぼしたときに、池禅尼の実子よりもり子孫しそんだけは京に住まわせました。京にいづらくなった頼盛は若松わかまつのしょう地頭じとうとしてやってきました。その子孫の平政有が小谷城を完成させたのです。この城は、東山城、西山城とともにかなえ城とよばれており、平氏へいし一族いちぞくの小谷氏のお城でした。

 南北朝なんぼくちょう時代じだいに、千早ちはやじょう金剛山こんごうさんのふもと)であげた南朝なんちょう方の「のろし」を、この小谷城でうけ、浜の寺(浜寺にあった大雄寺だいゆうじ)にさらに「のろし」を送り、大雄寺にいる味方にしらせたのです。

 戦国せんごく時代は、紀州きしゅう(現在の和歌山県わかやまけん根来寺ねごろじの味方をしたために、このかなえ城(小谷城、東山城、西山城)は、天正てんしょう3(1575)年の織田おだ信長のぶながによる根来をほろぼすたたかいでおとされました。

西山城址

 現在、この城址の南側のふもとに立派りっぱ門構もんがまえのある小谷家があります。この家は、江戸えど時代のはじめごろに小谷城のあとに建てられたのだそうです。 この城からのろしがあげられたほど、とても見晴らしのよいところです。

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