
この名前は、どこかで聞かれたことがあるかもしれません。昭和30年代に、「王将」という歌がはやりましたが、その歌は、この阪田三吉を歌ったものだったのです。あまりはやったので映画にまでなりました。「王将」といえば将棋ですね。阪田三吉は、将棋の名人でした。
実は、阪田三吉は、明治3年(1870)、現在の堺市堺区協和町で生まれました。家は貧しかったのですが家の仕事を手伝いながら将棋を覚えていったようです。丁稚奉公をしているときに、将棋に夢中になって背負っていた奉公先の子どもにけがをさせたほどだったのです。
その後、大阪ではアマチュアの将棋指しとして有名になりましたが、明治32年のころに関根金次郎と堺で将棋の対決をして、三吉はぼろ負けをしました。それ以降、将棋のプロをめざして関根金次郎をたおすことを目標に将棋の勉強をしていきます。新聞社ではたらきながらさらに成長をしていきました。

そして大正2年(1913)に、ついに当時八段だった関根に勝ったのです。大正14年(1925)には、京阪神の80人ほどの有力者に推薦されて、ついに「名人」を名のりました。しかし、これが東京の将棋界に「かってに名人を名のった」として非難されて、将棋界を追いだされました。昭和12年(1937)にようやく将棋界にもどることをゆるされましたが、あまりいい成績を残すことなく、昭和21年にこの世を去りました。
昭和30年に日本将棋連盟から「名人・王将」がようやくおくられました。多くの人の話を聞いて常識や知識をふやしていたようです。

毎年堺市で行われる「阪田三吉名人杯将棋大会」は、この阪田三吉にちなんで行われています。
なお、写真の「王将 阪田三吉顕彰碑」は舳松社会教育会館の前に建てられています。