堺東駅から南東側に向かい、榎小学校近くの竹内街道を東に少し進むと、写真のような「向泉寺閼伽井跡」に出ます。「閼伽井」とは、仏様にお供えをする水のことで、この場所にその水をくむ井戸があるのです。
この向泉寺とは、天平15年(743)に聖武天皇が命じて、僧行基が建てたお寺です。まず行基は、井戸をほり、そのまわりに色々な建物を建てていったようです。今は町の中の小さなところしか残っていませんが、かつては方違神社をふくめたほどの、とても広いお寺で、金堂や講堂、鐘楼、回廊、門なども建てられていたようです。金堂には千手千眼観世音菩薩が、講堂には聖徳太子がつくられたとする薬師如来がおかれていました。場所が、摂津・河内・和泉の境にあったので三つの国の境の山ということで、三国山とよびました。
この向泉寺も、永正8年(1511)の戦で焼かれてしまったために、現在の堺区市之町東に移されて再建されました。そこも明治時代になってなくなり、今はその跡には、木の碑だけが建てられています。
ところで、方違神社境内には、「向泉寺」という名前がほられた石の灯籠がおかれています。このことからも、現在の方違神社あたりまで、向泉寺があったことがわかります。なお、江戸時代の「和泉名所図会」という本には、神功皇后が朝鮮への戦からもどったときに、方違のおはらいをしたので、後に方角のわざわいをとりのぞくために、方違社としたことが書かれています。だから今の方違神社は、それがもとになったのでしょう。
むかしは神社とお寺とが同じ場所に建てられていましたが、明治時代から後には分けられるようになり、今では、方違神社として残されているのですね。