71 こう泉寺せんじあと

 堺東駅から南東側に向かい、えのき小学校近くの竹内たけのうち街道かいどうを東に少し進むと、写真のような「向泉寺閼伽あかあと」に出ます。「閼伽井」とは、ほとけさまにおそなえをする水のことで、この場所にその水をくむ井戸があるのです。

三国山 向泉寺想像画:
「行基菩薩と向泉寺」
(榎・向陵開発協議会編)

 この向泉寺とは、天平てんぴょう15年(743)にしょう天皇てんのうが命じて、そう行基ぎょうきてたお寺です。まず行基は、井戸をほり、そのまわりに色々な建物を建てていったようです。今は町の中の小さなところしか残っていませんが、かつては方違ほうちがい神社じんじゃをふくめたほどの、とても広いお寺で、金堂こんどう講堂こうどう鐘楼しょうろう回廊かいろう、門なども建てられていたようです。金堂には千手せんじゅ千眼せんがん観世音かんぜおん菩薩ぼさつが、講堂には聖徳太子しょうとくたいしがつくられたとする薬師やくし如来にょらいがおかれていました。場所が、摂津せっつ河内かわち和泉いずみさかいにあったので三つの国の境の山ということで、三国山みくにさんとよびました。

市之町東の向泉寺跡の碑

 この向泉寺も、永正えいしょう8年(1511)のいくさかれてしまったために、現在の堺区市之いちのちょう東に移されて再建さいけんされました。そこも明治時代になってなくなり、今はそのあとには、木のだけが建てられています。

 ところで、方違神社境内けいだいには、「向泉寺」という名前がほられた石のとうろうがおかれています。このことからも、現在の方違神社あたりまで、向泉寺があったことがわかります。なお、江戸時代の「和泉いずみ名所めいしょ図会ずえ」という本には、じんぐう皇后こうごう朝鮮ちょうせんへの戦からもどったときに、方違かたたがいのおはらいをしたので、後に方角ほうがくのわざわいをとりのぞくために、方違かたたがいのやしろとしたことが書かれています。だから今の方違神社は、それがもとになったのでしょう。

向泉寺井戸跡

 むかしは神社とお寺とが同じ場所に建てられていましたが、明治時代から後には分けられるようになり、今では、方違神社として残されているのですね。

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