86 けん本寺ぽんじさかい幕府ばくふ

顕本寺

 今回は、堺にも幕府があったというお話です。場所は顕本寺。フェニックス通りの宿院町しゅくいんちょう東四丁交差点こうさてんを南に入ったところに、顕本寺というお寺があります。ここに堺幕府が一時的におかれていたというのです。

 戦国せんごく時代じだい(1400年代後半~1500年代後半)、わが国は権力けんりょくあらそいのために、各地でいくさが行われており、家来けらいが主人をたおしたり、兄弟や親族しんぞく内でも争ったりしていました。大名で管領かんれい(現在の首相しゅしょうのように国を直接おさめていた武将ぶしょう)だった細川ほそかわ高国たかくにが、大永だいえい7(1527)年に三好元長らと戦ってやぶれると、元長は細川晴元はるもと・足利義維よしつな(11代将軍の次男)をいただいて堺に入りました。おさなかった晴元を管領にした元長が権力をにぎりました。これが「堺幕府」の始まりです。

三好元長の墓

 しかしその後、晴元と仲が悪くなると享禄きょうろく2年(1529)に阿波あわの国(現在の徳島県とくしまけん)に帰りました。2年後には細川高国が晴元を攻撃こうげきし始めたので、現在の天王寺てんのうじで元長は高国と戦って高国をたおしています。そして元長はふたたび堺幕府にもどりました。元長のいない間、堺幕府の実権じっけんをにぎっていた木沢きざわ長政ながまさとの関係かんけいが悪くなっており、元長と長政とが戦うことになりました。負けそうになった長政は、本願寺ほんがんじ一向いっこう一揆いっきの助けをうけて逆襲ぎゃくしゅうし、享禄5年に三好元長は顕本寺で自害じがいしたのです。

 その後、三好氏と堺との関係はつづき、元長の子どもの長慶ながよしは堺の後ろだてとなっています。また、長慶は、元長の菩提ぼだいをとむらうために南宗寺なんしゅうじを建てました。現在、この南宗寺には三好一族のはかがあります。

高三隆達の墓

 また当時の顕本寺は、現在のところよりも少し北よりにありましたが、1615年の大坂なつじんで焼けてしまい、後に現在のところに再建さいけんされました。

 顕本寺といえばもう一つ、徳川時代にはやった歌謡かようのはじまりであるりゅうたつ節ぶしをつくった高三たかさぶ隆達の墓もこのお寺にあります。

明治35年頃の顕本寺

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