「むかしから 堺の庖丁 よく切れる」
と、堺かるたでも読まれているように、堺の庖丁の切れ味はとてもよく、全国の調理師さんたちにもよく使われています。では、堺の庖丁はなぜよく切れるのでしょうか。また堺の庖丁づくりはいつごろから始まったのでしょうか。
庖丁についてお話しする前に、堺の刃物についてふれておきます。古墳時代(400年中ごろ~500年はじめごろ)のことです。大仙古墳(仁徳陵古墳)をはじめとする大きな古墳が、現在の堺で次々と造られていました。古墳は土を盛ってつくられていますので、まず土を掘る道具が必要です。そのために全国からクワやスキなどを造る鍛冶職人を堺などに集めました。現在のように鉄鉱石などを外国から買うことなどできませんから、川に流れてくる砂鉄を集めて鉄製の道具をつくりました。この人たちが後に河内鋳物師とよばれる人たちになります。全国の武器や武具、お寺の釣鐘などをつくっていきます。やがてこの人たちも全国に移っていってその地で鋳物づくりを始めます。
天保年間(1830~44年)になって、ポルトガルからわが国にタバコが伝えられ、しだいに人々にタバコが広まっていきました。タバコの葉をポルトガルから運んでくるので、その葉を切る刃物が必要になります。そこで、先の鋳物師の中で堺の湊近くに集まった人たちが、タバコの葉をきざむ庖丁、つまり「タバコ庖丁」をつくり出すのです。これが、堺での庖丁造りの始まりです。
鉄を庖丁の型に流して造るのではなく、鉄を高い温度で熱して真っ赤になった鉄をたたく、また熱してはたたく、これをくり返すことで混じりけのない、純粋な硬い鉄の塊になっていきます。これで庖丁をつくったのです。
ただこれだけではまだ切れません。今度はこれを砥ぐのです。粗いと石から細かいと石までを使って何度も砥いで切れ味を出していくのです。それでカミソリのような切れ味が出るのです。
堺区の北部に鍛冶・砥ぎ・柄つけなどの刃物業者が集まっていま、すが、ほとんどは家内工業というように家族で行われています。