93 大小路おおしょうじ

大小路説明板

 南海なんかい高野こうやせん堺東駅さかいひがしえきをおりて堺市役所の前から、南海本線堺駅に向かって歩きましょう。合同ごうどう庁舎ちょうしゃ郵便局ゆうびんきょく阪神はんしん高速こうそく道路どうろの下をくぐって熊野ゆや小学校とつづきます。この道が「大小路筋」です。

 

 

 
 もともとは「大小路」といって、北の摂津せっつのくに住吉郡すみよしごおりさかい北荘きたのしょうと南の和泉いずみのくに大鳥おおとりごおりさかい南荘みなみしょうとのさかいになっている道でした。堺のまちは摂津と和泉との二つの国からできていました。しかも道の東のはしは、現在の阪神高速道路まででした。かつてはそこに土居川が流れており、そこから東は堺ではありませんし、大小路筋の東は竹内たけのうち街道かいどう西にし高野こうや街道につながっていて、奈良なら飛鳥あすか高野山こうやさんにむすばれていました。当時の大小路筋は、9メートルはばの堺の街のメインストリートだったのです。

大小路交差点から東を見る

 ただし、1615年の大坂おおさかなつじんまるけになる前の堺では、この道ははんかい電車でんしゃ「大小路」停りゅう所付近から真東にのびていて、長尾ながお街道とつながっていたようです。

 この道のすぐ南にある開口あぐち神社じんじゃの古い文書(1416年)の中に「おう小路」の名前があることからも、そのころにはすでに「大小路」の名前でよばれていたことがわかります。堺が一番さかえていた自治じち都市としのころには、大小路をはさんで天王寺屋てんのうじやべに屋などの豪商ごうしょうがならんでいて、堺でも一番にぎやかなところだったようです。

晴明辻石碑

 また、この大小路と大道だいどう(阪堺電車の通っている道)との交差点こうさてんは、平安へいあん時代じだい(794~1192年)の陰陽師おんみょうじ安倍あべのせいめいうらない書きをめた所とされていて、うらないつじせい明辻めいがつじとよばれていました。ここで占いをすればかならず当たったといわれています。

 

 

大小路界石碑

 写真の石碑は、北堺警察署の北東のかどに立てられていますが、側を通る人たちも気にせずに通りすぎているだけです。

 

明治35年前後の大小路

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