106 行基ぎょうき菩薩ぼさつ遺物いぶつ

 はとぶえの29、30回でも行基を取り上げましたが、堺市内にはまだまだ行基がかかわったとされるものが残されていますので、今回と次回の2回でも取り上げます。

千日井

 まずは、「千日せんにち」です。南海本線七道駅しちどうえきの東の道路ぞいにこの石碑せきひとともに、昔の井戸が残されています。この井戸は、かつてこの地で病気びょうきがはやったときに行基がほった井戸で、千日も水がかれない井戸として、人々から「千日井」として大事に使われてきたものです。今はこの水は飲めませんが、このあたりの人々から現在でも大事にされています。

 

現在の開口神社

 次は64回でも書きました大寺さんです。正式の名前は開口あぐち神社じんじゃですが、もとは、この神社の中に大念だいねん仏寺ぶつじというお寺がありました。このお寺は行基が開いたもので、ここから人々は「大寺さん」と呼んで親しんでいます。

堺大空襲前の
大寺さん

ここには三重塔も建てられていました。お寺がこわされるとき、当時の豪商ごうしょうだった鳥井とりいこまきちがこの三重塔を買い取って守ったのです。しかし、さかい大空襲だいくうしゅうでこの塔もけてしまいました。

 

鶴田池

 堺東駅前からバスで南に向かいます。「山田北」りゅう所でおりて少し西に向かうと、ゴルフの練習場れんしゅうじょうのある池に出ます。この池が「鶴田つるたいけ」です。行基がつくったため池の一つで、当時の人たちの農業用のうぎょうようため池として永く使われてきました。また、この周辺に鶴田池院・尼院あまいんとよぶお寺も行基がつくっていましたが、その姿は現在では見られません。

 

太平寺

 最後は、太平寺たいへいじです。南海バス「菱木ひしき」停りゅう所の東500メートルのところにあります。このお寺も行基が開いたとされているお寺です。元は紀州きしゅう(現在の和歌山県わかやまけん)の豪族ごうぞくの一族がまつられているお寺でした。このお寺の名前が、この土地の地名ともなっており、永く地域の人たちから親しまれてきたことが分かります。

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