37 大浜公園・水族館すいぞくかんあと

明治36年 水族館

 35回でも書きましたが、この大浜公園には東洋一とうよういちといわれた水族館がありました。「大浜水族館」です。明治36(1903)年に、大阪で第五回だいごかい内国ないこく勧業かんぎょう博覧会はくらんかいが開かれたときに、その第二会場として大浜公園内にてられました。当時の写真を見ると、水族館前にはすでに乙姫像おとひめぞうが立っています。水族館といっしょに建てられたのでしょう。

 水族館といっても、現在あるような大型おおがたの水そうはありませんし、特別とくべつめずらしい魚がいたのでもないのです。それでも一番多いときで魚は150種類しゅるい、3000びきもいましたし、動物も20種類、50ぴき、鳥も50わいたようで、小さな動物園もつくられていました。当時としては、このような水族館自身がまだめずらしかったのでしょう。

 その後も、大浜公園の中には、大浜しお公会堂こうかいどう(現在の市民しみん会館かいかん)、運動場などがつくられたり、海岸には三階だての料理屋りょうりやさんが建ちならんだりしていました。明治45(1912)年には、宿院しゅくいんからはんかい電車でんしゃの大浜線がしかれ、大浜公園内まで電車で行けるように便利になりました。そのおかげで、各地から多くの観光客かんこうきゃくが大浜公園をおとずれるようになりました。多い時には潮湯だけで1日に5万人もおとずれたということです。

 この潮湯というのは、海水をわかしてみんなが入るお風呂で、からだがよくあたたまったようです。ここのは大浜のおきから海水をくんでパイプで運んでいました。

 しかし戦争がはげしくなってきた昭和19(1944)年には潮湯はできなくなり、昭和20年のさかい大空襲だいくうしゅうで焼けてしまいました。

 また、大浜の海岸には大正11(1922)年には、大浜飛行場ひこうじょうがつくられて、わが国ではじめて民間みんかんてい期的きてき航空こうくうが始まりました。さいしょは堺と高松とを結んで飛んでいました。

 戦争前の大浜公園のすがたです。

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