前回の小谷城址から泉ヶ丘駅に行き、駅を通りぬけて西に向かうと泉ヶ丘市民センターの建物が見えてきます。その建物の裏側を通って若松台方向に道路の下をくぐると、左側に「登り窯跡」が見えてきます。
泉北ニュータウンを造成するときに、この泉北丘陵一帯で、たくさんの登り窯の跡が見つかりました。登り窯というのは、陶器をつくる時に、土をこねて器の形にしてかわかしたものを焼く時の窯のことです。
これは、斜め上につくった細長いトンネル(10メートル位)状のもので、この中にかわかした土器を入れて、下のたき口にまきを入れて口をとじて火をつけます。中は酸素が不足しますが高温になります。炎は斜面にそって上がっていき、熱が全体に伝わっていくようにしたものです。現在でも各地の焼物をつくっているところでは登り窯を使っています。この登り窯のようすがよくわかるように、写真のように造りなおされて残されているのです。
弥生式土器の時代は、土を焼く温度が低いために土器はもろく、すぐこわれました。色も赤黒いものです。でも、この登り窯で焼いた土器はかたくてこわれにくくなっています。それは、焼くときに1100度~1200度と高い温度で焼いているからで、この技術は、古墳時代のころに朝鮮から伝わりました。色は灰色になっており、この登り窯で焼いた土器を須恵器とよんでいます。
須恵器は、泉北丘陵でたくさん焼かれていたようで、泉北ニュータウンを開発するための調査で、登り窯の跡がたくさん発見されました。きっとこのあたりで焼かれた須恵器が各地に運ばれて使われていたのでしょう。
この登り窯のしくみや、ニュータウンをつくるために発見された須恵器は、堺市博物館などでも見ることができます。