56 日本鋳物師いもじ発祥地はっしょうち

美原かるた「大仏さん 河内鋳物師の技光る
日本御鋳物師発祥地碑

 前回のくろ姫山ひめやま古墳こふんから国道309号線を北に歩きますと、やがて左側に写真の「日本鋳物師発祥地」の石碑せきひが見えてきます。

 前回の「黒姫山古墳」のところで書きましたが、鉄製てつせい甲冑かっちゅうが24も発見されています。この古墳からこんなにもたくさんの鉄製の甲冑が見つかったことからもわかるように、このあたりでは昔から鉄やどう加工かこうしてつく技術ぎじゅつをもった人たちが集団しゅうだんで住んでいました。特に鎌倉かまくら時代じだい室町むろまち時代にかけてこの技術者集団がこの地域ちいきでさかえました。この集団を「河内かわち鋳物師いもじ」といいます。このあたりが昔は「河内の国」とよばれていたからです。

 中でも東区の日置ひきしょうから美原区みはらく大保だいほを中心とする北の方に集団があり、東大寺の大仏の修理しゅうりや鎌倉の大仏だいぶつをつくるなど全国で活躍かつやくをしました。全国のお寺のかねに「河内鋳物師」の名がきざまれていたことで、そのことがよくわかります。

広国神社に奉納されている大鍋

 また、なべは「河内鍋」として知られており、やがて、その技術をかわれて各地から求められて、河内鋳物師たちは各地に移り住むようになりました。中には環濠かんごう都市としであった堺にも移り、堺の鉄砲てっぽう火縄ひなわじゅう)をつくるようにもなりました。堺の鉄砲というものがとても有名ですが、もともとはこの河内鋳物師の技術だったのですね。

 現在では、美原区役所の前に鐘をモチーフにした大きなモニュメントがてられており、河内鋳物師の活躍かつやくを今に伝えています。また、みはら歴史れきし博物館はくぶつかんには、黒姫山古墳から見つかった鉄製の甲冑などが展示てんじされたり、河内鋳物師がはぐくんできた鋳物技術のようすを、わかりやすく見せてくれたりしており、河内鋳物師を知るのにとてもいい施設しせつだと思います。

河内鋳物師の作品分布図

 ここが、わが国の鋳物師がおこった場所なのです。

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