60 阪田さかた三吉さんきち

坂田三吉肖像

 この名前は、どこかで聞かれたことがあるかもしれません。昭和30年代に、「王将おうしょう」といううたがはやりましたが、その歌は、この阪田三吉を歌ったものだったのです。あまりはやったので映画にまでなりました。「王将」といえば将棋しょうぎですね。阪田三吉は、将棋の名人でした。

 実は、阪田三吉は、明治3年(1870)、現在の堺市堺区協和町で生まれました。家はまずしかったのですが家の仕事を手伝いながら将棋をおぼえていったようです。丁稚でっち奉公ほうこうをしているときに、将棋に夢中むちゅうになって背負せおっていた奉公先ほうこうさきの子どもにけがをさせたほどだったのです。

 その後、大阪ではアマチュアの将棋しとして有名になりましたが、明治32年のころに関根せきねきん次郎じろうと堺で将棋の対決たいけつをして、三吉はぼろ負けをしました。それ以降いこう、将棋のプロをめざして関根金次郎をたおすことを目標もくひょうに将棋の勉強べんきょうをしていきます。新聞社しんぶんしゃではたらきながらさらに成長をしていきました。

王将 坂田三吉顕彰碑

 そして大正たいしょう2年(1913)に、ついに当時八段はちだんだった関根にったのです。大正14年(1925)には、京阪神けいはんしんの80人ほどの有力者に推薦すいせんされて、ついに「名人」を名のりました。しかし、これが東京の将棋かいに「かってに名人を名のった」として非難ひなんされて、将棋界を追いだされました。昭和12年(1937)にようやく将棋界にもどることをゆるされましたが、あまりいい成績せいせきを残すことなく、昭和21年にこの世を去りました。

 昭和30年に日本将棋連盟れんめいから「名人・王将」がようやくおくられました。多くの人の話を聞いて常識じょうしきしきをふやしていたようです。

舳松社会教育会館

 毎年堺市で行われる「阪田三吉名人杯めいじんはい将棋大会」は、この阪田三吉にちなんで行われています。

 なお、写真しゃしんの「王将おうしょう 阪田三吉顕彰けんしょう」はへのまつ社会しゃかい教育会きょういくかいかんの前にてられています。

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