和算との出会い・・・「はじめに」にかえて
まずは。この漫画を見ていただきます。
私が愛読していた月刊誌「少年」に連載していました「矢車剣之助」(堀江卓・作画)の昭和34年(1959)11月号別冊付録の一場面です。
私が江戸時代の我が国の数学(いわゆる和算)に出会った最初の場です。私の小学校4年生の時です。まだ三角形の面積は習っていなくて、もちろん底辺というものも分かりません。ただ、姉が6年生だったので、何となく「底辺」という言葉が算数の図形に出てくるということだけは、分かっていました。
「二一天作の五」という言葉を読んだときは、何となく昔の算数の勉強をしているんだなぁということは感じていました。いかにも江戸時代の算数という感じの文言です。それで母に「二一天作の五て何?」と聞いたことがありました。母からは、「そろばんの九九だ」という感じのことを聞いたことを覚えています。
この漫画と出会ったときに、江戸時代の算数に興味を引かれたのでしょう。高等学校で日本史の江戸時代の文化のところで、関孝和が「法微算法」を表したということが出てきたときに何かワクワクしたことを覚えています。

また大学時代には、古書店でこの「発微算法」が並んでいるのを発見! ほしくて仕方がなかったのですが、とても私には買えるはずもなくこのことがずっと自分の心に残っていました。
その後も新聞やテレビなどで算額のことや和時計のことなどが報道されると、じっと見ていました。神社に行ったときなど、奉納された額を見たこともあるのですが、算額には出会えずにいました。
そんな折にたまたま京都女子大の平野先生から著書の「算額問題の教材化 和算」が送られてきました。平野先生とは、昭和48年に私が新任の教師として中百舌鳥小学校に赴任したときに出会ったのですが、小学校の校長を歴任された後、京都女子大学の教授になられた方です。そこでは何と「和算の教材化」を研究されており、関西各地の神社の算額から小中高等学校で教材と成りうるものを見つけ、教材にされていました。
平野先生は堺市内の神社での算額を探し、開口神社に戦前まで算額があったことを発見。これの写しを入手されて現代語訳と解法について先生とともに研究したことが、私にとっての和算と直接かかわるきっかけとなったのです。
その算額は「算題十一ケ條」と題されたもので、堺あるいは近隣に在住の者11名が、文化元年(1804)5月に開口神社に奉納されたものです。現物は残念ながら、第二次世界大戦中の昭和20年(1945)7月10日の堺大空襲で焼けてしまいました。その前に写しを作成されていたようで、昭和50年4月に同寺で保存されていたものを整理され、「開口神社史料」として発行されていました。これが残されていたのが幸いしました。
11問の内、私が担当した1問を次のページに掲載します。
これは、多川虎蔵という算術好事家が作った問題で、甲、乙、丙と名付けた、大きさの違う正方形があり、それを積んでいったときにその個数はいくつあって、またその数をどのようにして求めたのでしょうか、と勝手に読み解きました。
その問題の後ろに「答日」とありますが、これは「答えて曰く」と読み、その後に答えと説き方を説明しているんですね。しかし漢文なのでなかなか手ごわいです。
こんな風に、江戸時代の算額を少しずつ自分たち(平野先生と八木先生、そして筆者の3人)の力で解いていくことを常としました。直接、算額と向き合った最初です。次第に少しずつではありますが、問題文の意味が理解でき、またその解もなんとか読めているなと感じ始めてきました。となると、和算の面白さが何となく分かってくるようになってきましたね。
和算とは
和算とは、隣国中国伝来の数学をもとに、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて宣教師たちが持ち込んだ西洋数学を、日本の数学者たちがブレンドして創り上げたものと言われています。それを独自に研究しそれを深めて次第に日本全国に伝わっていったようです。
また算額は、江戸時代に和算の好事家たちが、自分の数学にかかわる問題を作り、それを額に仕立てて神社に奉納したものです。まるで、自分はこんな問題を作ったがだれか解ける者がいるかと、訴えている、自慢しているかのようです。その算額を見つけて問題を解けた人は、新たな問題を作り、神社に奉納することもしていました。このように互いに挑戦しあっていた人たちがいたのも事実です。
さて、和算といえば有名なのが先ほど少し触れた関孝和ですね。でもその前から和算書は多くの人たちによって作成されて書物として発行されていました。毛利重能や百川治兵衛、吉田光由、今村知商たちです。ちょっと年表形式で見てみましょうか
| 年号 | 事 項 |
| 文禄元年(1592)頃 | 「算額啓蒙」が日本に伝来 |
| 慶長9年(1604) | スピノラの数学ゼミ開催(京都) |
| 元和8年(1622) | 毛利重能「割算書」刊行 |
| 元和8年(1623) | 百川治兵衛「諸勘分物」刊行 |
| 寛永4年(1627) | 吉田光由「塵劫記」刊行 |
| 寛永16年(1639) | 今村知商「竪亥録」刊行 |
| 承応元年(1652) | 田原嘉明「新刊算法起」刊行 |
| 承応2年(1653) | 榎並和澄「參兩録」刊行 |
| 延宝2年(1674) | 関孝和「発微算法」刊行 |
堺出身の和算家・田原嘉明
さて、いよいよ表題にある堺出身の和算家・田原嘉明の登場です。まず、堺市史(1929~31年刊行)で確認をしましょう。その第7巻には次のように書かれています。
「田原嘉明は堺の人、始め姓名を坂重春、通稱を宇右衛門と稱した。後田原義明と稱し、通稱を仁左衛門と改めた。承應元年新刊算法起を、同二年榎並和證參兩録を著した。」と。名前を解明したことと、和算の書物を著したことが書かれているだけです。分かったのは、堺にもこんな算学者がいたんですよということだけです。
そこで、平野先生から「新刊算法起」の活字版を提示していただき、それを読み解くことを始めました。
田原嘉明は、その著「新刊算法起」の奧付(右写真)に書かれているように「堺大小路口」に住んでいした。大小路の入り口となるところですね。で、早速元禄2年(1689)の堺大絵図で確認をしましょう。

この地図は上を東向きに置いていますが、大小路筋が土居川にかかる間際に、田原家の家があります。先の書物の奥付に書かれているとおりです。
地図を拡大してみますと、何となく「田原」という文字(赤枠内)が読めそうですね。
このように、家は堺の街の大小路に面しています。当時の大小路というのは、堺の街を南北に仕切った、いわゆるメインストリートにあたります。豪商の屋敷が立ち並んだ通りなのです。ただ、田原家は商家でなく嘉明自身は医師注1だったかもしれません。医師だとすると、数学などの学問には興味が高く、吉田光由や百川治兵衛たちの著書をむさぼり読んで、和算の世界にのめりこんでいったことも納得できます。
しかも田原嘉明が子どものころから、大小路周辺の商人からも影響を受けて、常に算盤や計算に触れて育っていたことも十分に考えられるところです。そういう成育環境だからこそ、和算の世界に抵抗なく入れたのでしょう。
彼の「新刊算法起」は、数の起こりや面積などの基本図形の計算方法はもとより、他の和算家とは少し違って、純粋な数学というよりも具体的な場面を取り上げて、その計算方法の説明もしてしており、どちらかというと、算学が趣味というよりも、実学的なものとして とらえて研究を進めていたようです。これも実際の物を取り扱っていた商家が、自宅の周辺に建ち並んでいたという環境の中で育ったからこその視点であったとも考えられます。
ただ、「新刊算法起」下巻の跋文に「窺ふに當代算法乃祖師 嵯峨ノ吉田佐渡ノ百川此かたかたをさしおき下愚か分として算法起と外題をうつ事ハ誠におそ連あり(窺うに、当代算法の祖師、嵯峨の吉田、佐渡の百川、この方々を差し置き、下愚か分として、算法起と外題をうつ事は、誠におそれあり)」
と書いていることから、嵯峨の吉田光由と佐渡の百川治兵衛に敬意を表するとともに、自らを愚か者と置いていることが分かります。関西人独特の謙譲の精神を普通に表したのかもしれません。
では、次回からその「新刊算法起」を見ることにしましょう。
注1:田原嘉明は医師
元東北大学理学部教授の平山諦氏は、自著「和算の誕生」142ページで「田原嘉明は医術にも通じていた。寛文12年には『素問入式運気論奧』を出版した。」と書かれています。また、元広島大学大学院生の中西隆氏は、新刊算法起の抜文から田原嘉明氏が医術との関連でむすんでいることから、医師だろうと推察しています。それらから、田原嘉明を医師と考えられるところです。


