65 鳥井とりいこまきちはんかい鉄道てつどう

開口神社の玉垣:
鳥井駒吉

 前回の開口あぐち神社じんじゃのまわりをかこんでいる「玉垣たまがき」という石で造られた垣根かきねを見ていると、写真のものがありました。ちょっと見にくいですが、「鳥井駒吉」とほられていますね。今回は、この「鳥井駒吉」について書いてみましょう。

 鳥井駒吉は、嘉永かえい6年(1854)に堺の宿院しゅくいん町の米屋の家で生まれましたが、明治3年(1870)に家のしごとの酒造業しゅぞうぎょうをつぎました。当時の堺は、兵庫県ひょうごけんなだ西宮にしのみやなどとともに、清酒せいしゅ名産地めいさんちでした。26さいさかい酒造しゅぞう組合くみあい最初さいしょ組合くみあいちょうにつくや、酒をつくる技術ぎじゅつ改良かいりょうしたり、より多く生産できるような仕組しくみをつくったりしていきます。そして、1889年に、大阪おおさか麦酒びーる会社かいしゃをつくって初代の社長につき、ビールの製造せいぞう販売はんばいを始めました。最初の販売が1892年のことで、これを「アサヒビール」と名づけました。

鳥井駒吉肖像

 また、明治5年(1872)に、東京の新橋しんばし横浜よこはまの間をわが国ではじめて鉄道が通りましたが、これは国がつくったものでした。駒吉たちは、明治18年(1885)には、仲間の18人といっしょに「阪堺鉄道」を難波なんば大和やまとかわの間で走らせました。わが国の私鉄してつとしては最初の鉄道です。もともとは大阪と堺とをむすぶ鉄道として計画しましたが、これは、その第一歩となります。しかしなかなかみなにはみとめられず、「火をふく車」といってさけられたこともあったようです。電車はまだまだ先のことで、当時は蒸気じょうき機関車きかんしゃでしたのでそのように思われていたのでしょう。それでも、明治21年(1888)には、大和川をこえて吾妻橋駅あずまばしえき(現在の堺駅さかいえき)まで線路せんろがのばされ、はじめの計画通り大阪―堺間を鉄道でむすぶことができたのです。これが、現在の南海なんかい電車です。

明治16鳥井駒吉酒店:住吉堺名所並に豪商案内記

 鉄道で大阪と堺とが結ばれるようになると、それまでは、馬車ばしゃなどで、大和橋をわたって大阪に行き来してきた人々にとってとても便利べんりではやくなったのですね。

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