前回は、「深井」という地名について書きましたので、今回も「堺」という名前についてふれましょう。
平安時代(794~1192年)の藤原定頼の歌集で
「さかいという所に しほゆあみにおはしけるに」
と歌われており、このころから「堺」が知られていたことがわかります。これが、「さかい」の名前が歴史に出てくる最初でしょう。「しほゆあみ」というのは、「潮湯あみ」のことで、海水をあたためて湯にしたものに身体をひたすこと、つまり潮風呂に入ることをいいます。昔から堺では、この潮湯あみが行われており、京都からも潮湯にひたりにやってきていたようです。身体がとてもあたたまり、つかれもよくとれるようです。この歌をよまれた藤原定頼は、小倉百人一首でも
「朝ぼらけ 宇治の朝霧たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木」
という歌をよまれています。
さて堺の潮湯は、その後もつづき、大正2年(1913)に阪堺電気軌道線(現在の阪堺電車)が、大浜公園に大潮湯を開業しました。明治36年に開業した水族館や大浜海水浴場などとともに、多くのお客さんが来られました。堺市内だけでなく近畿地方の各地から人々があつまり、大浜公園は家族で楽しめる観光地となっていました。しかしこの潮湯は第二次世界大戦がはげしくなる昭和19年にしめてしまいました。
その後、臨海工業地のために堺の海は埋め立てられて、浜はなくなり海もはるか西に遠のいて、潮湯どころではなくなったのが残念です。堺市内の潮湯は、かろうじて南側に残された土居川の南に一軒のこされています。
なお「堺」とよぶようになったのは、摂津と河内と和泉の三つの国の境にできた町だったからです。