69 「堺」の地名としお

 前回は、「深井ふかい」という地名について書きましたので、今回も「堺」という名前についてふれましょう。

 平安時代(794~1192年)の藤原定頼ふじはらさだより歌集かしゅう
 「さかいという所に しほゆあみにおはしけるに」
と歌われており、このころから「堺」が知られていたことがわかります。これが、「さかい」の名前が歴史れきしに出てくる最初さいしょでしょう。「しほゆあみ」というのは、「潮湯あみ」のことで、海水をあたためて湯にしたものに身体をひたすこと、つまりしお風呂ぶろに入ることをいいます。昔から堺では、この潮湯あみが行われており、京都きょうとからも潮湯にひたりにやってきていたようです。身体がとてもあたたまり、つかれもよくとれるようです。この歌をよまれた藤原定頼は、小倉おぐら百人一首ひゃくにんいっしゅでも 
 「朝ぼらけ 宇治うじ朝霧あさきりたえだえに
      あらはれわたる 瀬々せぜ網代あじろ
という歌をよまれています。

海から見た潮湯

 さて堺の潮湯は、その後もつづき、大正2年(1913)にはんかい電気でんき軌道きどうせん(現在の阪堺電車)が、大浜公園に大潮湯を開業かいぎょうしました。明治36年に開業した水族館すいぞくかんや大浜海水浴場かいすいよくじょうなどとともに、多くのお客さんが来られました。堺市内だけでなく近畿きんき地方ちほうの各地から人々があつまり、大浜公園は家族かぞくで楽しめる観光地かんこうちとなっていました。しかしこの潮湯は第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんがはげしくなる昭和19年にしめてしまいました。

潮湯

 

 その後、臨海りんかい工業地こうぎょうちのために堺の海はめ立てられて、浜はなくなり海もはるか西にとおのいて、潮湯どころではなくなったのが残念ざんねんです。堺市内の潮湯は、かろうじて南側に残された居川いがわの南に一けんのこされています。

 なお「堺」とよぶようになったのは、摂津せっつ河内かわち和泉いずみの三つの国のさかいにできた町だったからです。

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