72 月蔵がつぞう

 山口家やまぐちけ住宅じゅうたくから少し東に歩いて寺町筋てらまちすじに入りましょう。南に行くと日蓮宗にちれんしゅうのお寺があります。月蔵寺です。

月蔵寺

 山門をくぐろうと上を見上げますと、山門には中国が北宋ほくそうとよばれていた時の政治家せいじかである司馬光しばこうのかめりの話が、彫刻ちょうこくされているのが見えます。それは、司馬光が七さいのときに、いっしょにあそんでいた友達が大きな水がめにちておぼれそうになりました。まわりにいた大人がどうしようとこまっている時に司馬光が水がめをわって友達をすくったというものです。そして、司馬光が、当時、その土地ではとても大切であった水よりも、子どもの命を一番大事なものと考えたことを父親がほめたというお話です。

山門の彫り物

 ところでこの寺は、明応めいおう4年(1495)にてられたものですが、慶長けいちょう20年(1615)の大坂おおさかなつじんけてしまっています。くぐった山門は嘉永かえい3年(1850)に再建さいけんされたもので、本堂ほんどうは、正徳しょうとく2(1712)年にやはり再建され何度かの修理しゅうりの後、現在の姿となっています。

 境内けいだいには、大野道おおのどうけん慰霊塔いれいとうがあります。大野道犬とは、豊臣とよとみひでよしの主だった家来けらいですが、大坂夏の陣では、徳川とくがわ家康いえやすに堺の町をとられないようにと、堺の町を焼いてしまいました。最後さいごはとらえられて堺の町で処刑しょけいされますが、後に豊臣家に忠誠ちゅうせいを通したとして堺の人々により、供養塔が建てられました。それがこの供養塔です。

風間六右衛門墓

 また、風間六かざまろく衛門もんのおはかがあります。風間六右衛門は、夏の陣で焼けてしまった堺の町を、家康の命令めいれいでつくりなおした奉行ぶぎょうです。しかし、六右衛門は、日蓮宗にちれんしゅうのお寺の敷地しきちを他の宗派のお寺よりも広くとったために、他の宗派のお寺からの苦情くじょうが強く、江戸に向かう途中とちゅうに堺の町の中で自殺じさつをしました。その時に建てられたお墓は、大野道犬の供養塔と共に、明治時代にここに移されたようです。

 なお、六右衛門がなくなった所には、「かざ間堂まどう」が建てられています。

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