堺東方面から竹之内街道を東に進みます。地下鉄御堂筋線の上をこえてさらに東に行くと、やがて金岡町の真ん中付近で神社と出会います。ここが金岡神社です。
この神社は、平安時代の前半の仁和年間(885~889年)に、人々の安全と作物が豊かに実るようにとの願いで、住吉大神をおまつりしたのが始まりと伝えられています。また、このあたりには、昔から河内絵師とよばれる人々が住んでおり、奈良の大仏殿の絵をかくなど活躍をしていました。その中で特に絵にすぐれた巨勢金岡という人は、絵所長者とよばれて絵の仕事をする最高の位につきました。家原寺の行基菩薩行状絵伝も金岡が描いたと伝えられているほどです。大和絵とよばれる日本画のもとになった絵の様式をつくり上げ、現在の日本画にも大きな影響を与えたのです。
986年ごろに、天皇の命令で巨勢金岡をこの神社でいっしょにまつるようになり、「金岡神社」とよぶようになりました。この神社の300メートルほど東には金岡淵とよばれる、巨勢金岡の筆洗いの池があり、江戸時代の本の「河内名所図会」にものせられています。当時、金岡はこのあたりに住んでいたようです。
江戸時代に滝沢馬琴が書いた「南総里見八犬伝」という本には、巨勢金岡の描いた「目なしの虎」に目を入れるとその虎があばれ出したので、主人公の一人がその虎を退治するという場面があります。江戸時代になっても巨勢金岡の名前はそれほど有名だったことがわかります。
それにちなんで、大正時代から毎年五月三日には絵画・技芸が上手になるようにと願って、画神祭りが行われています。
本殿は、昭和9年(1934)の室戸台風でたおれたので、昭和12年に江戸時代はじめごろの古式にて建てなおされたものです。