90 金岡かなおか神社じんじゃ

 堺東方面から竹之内たけのうち街道かいどうを東に進みます。地下鉄ちかてつ御堂筋みどうすじせんの上をこえてさらに東に行くと、やがて金岡町の真ん中付近で神社と出会います。ここが金岡神社です。

金岡神社全景

 この神社は、平安へいあん時代じだいの前半の仁和にんな年間ねんかん(885~889年)に、人々の安全と作物がゆたかに実るようにとのねがいで、住吉大神をおまつりしたのが始まりと伝えられています。また、このあたりには、昔から河内かわち絵師えしとよばれる人々が住んでおり、奈良なら大仏殿だいぶつでんの絵をかくなど活躍かつやくをしていました。その中で特に絵にすぐれた巨勢こせの金岡かなおかという人は、絵所えどころ長者ちょうじゃとよばれて絵の仕事をする最高さいこうの位につきました。家原寺えばらじ行基ぎょうき菩薩ぼさつ行状ぎょうじょう絵伝えでんも金岡がえがいたと伝えられているほどです。大和絵やまとえとよばれる日本画のもとになった絵の様式ようしきをつくり上げ、現在の日本画にも大きな影響えいきょうを与えたのです。

竹内街道に建つ鳥居

 986年ごろに、天皇てんのうの命令で巨勢金岡をこの神社でいっしょにまつるようになり、「金岡神社」とよぶようになりました。この神社の300メートルほど東には金岡かなおかがふちとよばれる、巨勢金岡のふであらいの池があり、江戸時代の本の「河内名所図会」にものせられています。当時、金岡はこのあたりに住んでいたようです。

 江戸時代に滝沢たきざわきんが書いた「南総里見八なんそうさとみはっ犬伝けんでん」という本には、巨勢金岡の描いた「目なしのとら」に目を入れるとその虎があばれ出したので、主人公の一人がその虎を退治たいじするという場面があります。江戸時代になっても巨勢金岡の名前はそれほど有名だったことがわかります。

それにちなんで、大正たいしょう時代から毎年五月三日には絵画かいが技芸ぎげいが上手になるようにと願って、しんまつりが行われています。

金岡神社

 ほん殿でんは、昭和9年(1934)の室戸むろと台風たいふうでたおれたので、昭和12年に江戸時代はじめごろの古式こしきにて建てなおされたものです。

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