熊野小校区の史跡

 

堺市立熊野小学校

〒590-0946 堺市堺区熊野町東5丁1番49号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.向泉寺跡:市之町東

 向泉寺というのは、743年に聖武天皇が行基に命じてつくったお寺です。場所は現在の榎元町から三国丘高校あたりの大きなお寺でしたが、1511年の戦で焼かれてしまい、この木碑のある市之町東に移転しました。しかしこれも明治の廃仏毀釈で破壊されてしまい、現在は写真の碑と榎元町にある「向泉寺閼伽井跡」が残されているだけです。

 

 


2.熊野小学校玉座:熊野町東

 明治10年(1877)、明治天皇は熊野小学校の授業を参観に来られました。堺県(当時)の各地から優秀な児童487名を集めて10教室で授業が行われました。この時に天皇が座られた椅子などを保存するための建物が建てられました。これがこの玉座です

 

 


※明治天皇御臨幸之図

※展覧之図
上下共に、60年記念で昭和12年に描かれたものです。

3.大通庵跡:熊野町東

 自治都市堺の豪商だった津田宗及(天王寺屋)が父宗達の菩提を弔うために建てたお寺です。宗達の号(大通)をとって大通庵と名付けました。宗及の子・江月宗玩も大通庵の創建に力をつくしています。創建後は、堺の医者半井云也が宗及の娘と結婚し津田家と親戚となり、堺から平野に移った津田家に代わり半井家が維持しました。し、かし明治初年に廃絶しました。

 

4.土居川・大小路橋跡:熊野町東

 中世自治都市堺の象徴だった土居川に架けられていた石橋の一部が歩道橋下に置かれています。大小路筋から東に川を渡る際に長く利用されていた橋でしたが、阪神高速道路を堺市にも通すことになり、1967年に土居川も埋め立てられてその上に高速道路を造ってしまいました。その名残がこの残骸です。

 

 


5.「晴明辻跡」石碑:熊野町東

 平安時代の陰陽師といえば、安倍晴明。大小路(筋)と東六間筋(紀州街道の1本東の筋)との交点に、晴明が占い書きを埋めたとされ、そこで辻占を行うとよく当たるのだそうです。晴明が、信太村から京に向かう時にこの辻を通りその時に埋めたのでしょう。境になるところに理屈で理解できない力が現れて、良くない出来事とを結びつけていたのでしょう。

 

6.開口神社:甲斐町東

 神功皇后により創建された神社で、最古の国道の竹内街道の端にありました。746年には、行基が念仏寺を建てたことから「大寺さん」と人々から親しまれてきたところです。旧市内で唯一の式内社で、海の神様として知られ、住吉大社の奥の院とされています。中世堺の南庄の鎮守として存在していました。

 

7.「鳥居駒吉」玉垣(開口神社)

 ちょっと見にくいですが、「鳥井駒吉」と掘られています。宿院町の米屋で生まれましたが、1870年に家の酒造業をつぎました。1889年に大阪麦酒会社をつくりビールの販売を始めました。これが「アサヒビール」の始まりです。さらに1885年には仲間と「阪堺鉄道」を難波―大和川間で走らせました。私鉄最初の鉄道で、現在の南海電車で、堺駅(当時は吾妻橋駅)まで走ったのは1888年のことです。

 

8.海会寺金龍水(開口神社)

 今は南宗寺付近にある海会寺は、昔は大寺さんのところにありました。1338年に乾峯和尚を慕ってきた金面龍王にありがたい戒をさずけ、その礼にと「鵜の羽を敷き白露が浮かぶ所を掘れば清水が湧き出る」と教えました。そこを掘ると清水が湧き出し、名泉と伝えられたそうです。「金龍水」と名付けられました。

9.「堺の幼稚園教育発祥の地」石碑(開口神社)

 1899年に、開口神社境内に「私立堺幼稚園」が開設されました。3年後には「堺市立堺第一幼稚園」となり、1936年には、「堺市立第一幼稚園」と園名を変更しています。

戦後、園舎は開口神社の東側に移転しましたが、現在は耐震の問題で、堺市立少林寺小学校敷地内に移転しています。

 

 

 

10.「泉陽高校発祥之地」石碑(開口神社)

 1874年に、開口神社内に「女紅場」として開設されたのが泉陽高等学校の始まりです。そこでは、裁縫などを教えたり就学の機会のなかった女性に対する補習教育を行ったりしていました。その後「堺区立堺女学校」「大阪府立堺高等女学校」などと改称し、1903年に現在地に移転をし、戦後「泉陽高等学校」となりました。

 

 

11.「三国ケ丘高校発祥之地」石碑(開口神社)

 1895年に、開口神社境内に「大阪府第二尋常中学校」が開設されたのが三国ヶ丘高等学校の始まりです。1896年には現在地に移転をしています。その後、「大阪府堺中学校」「大阪府立堺中学校」と改称し、戦後の1948年に「大阪府立三国ケ丘高等学校」となり、現在は「ケ」がとれて「大阪府立三国丘高等学校」と改称されています。

 

12.菅原神社:戎之町東

 菅原道真が流された太宰府で掘った木像が堺の浜に流れ着き、常楽寺の僧が997年に創建し、その像を祀ったのが始まりです。1677年に建てられたと伝えられる楼門は、大阪府有形文化財に指定されています。また楼門には、小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納した傘松の幹も保存されています。なお、「天神さん」として市民から親しまれています。

 

13.祥雲寺:大町東

 堺の豪商の谷正安は、1625年に沢庵和尚のために寺を建てました。当時は瑞泉寺と呼んでいましたが、1639年に祥雲寺としました。このお寺に庭は枯山水で、江戸時代の初め頃のものです。いくつかの石を組みあわせて置き、その前に白い砂で水の流れをイメージしたものになっています。この庭は、大阪府の指定名勝とされています。

14.沢庵供養塔(祥雲寺)

 1573年に出石市で生まれた沢庵ですが、1607年に南宗寺の住職になっています。2年後には京の大徳寺の住職になっていますが、すぐに堺にもどっています。1615年の大坂夏の陣で南宗寺が焼失しましたが、沢庵は南宗寺を現在地に再建し、海会寺を移転し、その跡に祥雲寺を創建しています。

 

 

15.堺奉行所跡:櫛屋町東

 1615年の町割りで、新たに堺に奉行所をおき、堺の町を徳川幕府が直接おさめるようにしました。堺の町だけでなく湊にかかわる仕事もしていたようです。多いときには10人の与力がおり、同心は50人もいました。この奉行所のお殿様が乗馬の練習をするための馬場があり、「殿馬場中学校」の名前がここからつきました。

 

 

 

16.常夜灯:宿院交差点

 常夜灯というのは、今でいう街灯のようなものです。この常夜灯には「天5年 左海たばこ包丁鍛冶」と掘られています。天保5堺の「たばこ包丁組合」が奉納したものなのです。こんな立派な常夜灯が奉納できるだけ、当時のたばこ包丁組合の力は大きかったということです。

 

17.糸割符会所跡:櫛屋町東

 生糸は江戸時代の重要な輸入品でした。堺にもその買い付けが許されたのは、1604年のことです。後に江戸、大坂の商人が加わりましたが、買い付けの割合は、堺が120丸に対して、京や江戸は100丸、大坂は50丸(1丸=30kg)でした。

 堺には200人以上もの糸割符商人がおり、この商人たちが事務をとるための場所が、この「糸割符会所」だったのです。

 

18.北端郷惣会所跡:櫛屋町東(写真は上)

 惣会所というのは、江戸時代の大坂、岡山、高知、堺、今井など主な町の惣年寄の会所(事務所)です。その町の町政を司った町役人の筆頭が惣年寄です。堺では大小路で南北に分け、さらに本郷と端郷とに分けて、北本郷、北端郷など4区分としていました。それぞれに惣会所が置かれ、それぞれ数名の惣年寄が月番で勤務し、その下に惣代と職事が雇われて実務にあたりました。1693年に、本郷と端郷の区分を廃止し、北組102町、南組76町の南北二組制となっています。

19.山本梅史生家の跡:櫛屋町東

 1886年に生まれた梅史は、熊野小学校を卒業後、堺高等学校に入学し、14歳で茶の湯と俳諧とを習っています。高浜虚子に学び、泉州の同人と雑誌「いづみ」を発刊。翌年には「ホトトギス」同人に押されています。

 「物の始まりゃ 何でも堺三味も小唄もみな堺 ほんによいやよいや よいや堺 はーそやさかい」と歌われた「堺音頭」は、山本梅史が作詞したものです。

20.堺商工会議所発祥之地:櫛屋町東(写真は上)

 明治維新後、殖産興業が掲げられました。中でも外国貿易を振興するためには商工業者の組織が必要となり、1878年に東京・大阪・神戸に「商法会議所」が生まれました。翌明治12年9月13日に、堺県庁の許可を得て、堺商業集会所が設立され、この地に事務所がおかれました。これが堺商工会議所の始まりです。

21.曽呂利新左衛門屋敷跡:市之町東

 豊臣秀吉の御伽衆ですが、元は刀の鞘を作っていました。刀が鞘にソロリと入るので、この名前がついたと言われています。秀吉から褒美をもらえるときに希望を聞かれ、米を今日は1粒、明日はその倍というように二か月間もらえるように約束をしたが、秀吉は途中でその量の膨大さに気づき、新左衛門に謝ったという話が残っています。

 

 

 

22.宿院頓宮:宿院町東

 「宿院」というのは、住吉の「宿居」から「宿院」となったようです。「頓宮」とは、神様が一時休まれるところということで「御旅所」とも呼ばれています。毎年7月31日には大鳥大社から、8月1日には住吉大社からお渡りがあり、神輿に乗った神様がここで一泊されます。また境内には「飯匙堀」があって、ここは海幸彦山幸彦の伝説の潮干珠が埋められており、どんなに雨が降っても水がたまらないところです。

23.顕本寺:宿院町東

 1451年、堺の豪商の木屋と餅屋という人たちの自宅を法華堂としたのが、このお寺の始まりです。場所は現在の開口神社の近くでしたが、1615年の大坂夏の陣で消失した後、現在の場所に移っています。三好一族との結びつきが強く、長慶らの軍勢が寄宿したり、元長の25回忌法要も営まれたりしています。

24.三好元長の墓(顕本寺)

 足利義晴を擁する管領の細川高国に対し、1527年に細川晴元と三好元長が足利義維を迎えて、顕本寺に堺幕府を開きました。しかし高国を討った後に晴元は元長と袂を分かちました。1532年に晴元は一向一揆をあおって堺の元長と戦い、ついに元長は顕本寺で自害しました。ここに堺幕府は滅んだのです。短い期間でしたが、堺にも実質的に幕府が置かれていたことがあったのです。

 

 

 

25.隆達碑(顕本寺)

 安土桃山時代、この寺の僧高三(たかさぶ)隆達が当時の流行歌だった「隆達節」を創出し、江戸時代を通してはやりました。隆達は、堺の豪商で薬種商を営んでいた高三隆喜の子どもです。父が菩提寺の顕本寺に庵を構えて隠居所としましたが、それを引き継いだ隆達は、高三坊とし、当時流行していた小唄を集め、自ら作詞・作曲を行って隆達節を生み出しました。この隆達節は、その後の我が国の流行歌のもととなっています。また、国歌「君が代」も、隆達が作ったともいわれています。

26.山之口筋

 商店街の名前として知られていますが、もともとこの通りの名前です。現在の宿院公園のあたりに「名越の丘」と呼ばれる小さな丘がありました。この丘を「お山」と呼んでいたことから、この道の入り口にあたるところ、「山の口」と呼ぶようになったのです。今はその山もありません。

 

 

 

 

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