117 泉北せんぼくニュータウン

泉北ニュータウン:平成10年ころ

 今回は、歴史といっても新しいものを取り上げましょう。それは「泉北ニュータウン」です。この堺市にとっては新しいまちに住んでいる方もたくさんおられるでしょう。

 もともとこの地は、泉北丘陵地きゅうりょうち農地のうちと森林でした。米作りもさかんなところです。その地が、なぜ多くの人たちが生活する場所に変わったのでしょうか。

 昭和20年(1945)の第二次世界せかい大戦後たいせんご、日本の人口じんこうは急にえ始めました。また昭和33年からのさかい泉北せんぼく臨海りんかい工業地こうぎょうち開発かいはつで、多くの工場が堺の臨海部(海に面したところ)に集まりました。ここではたらく多くの人たちが生活する住まいが必要ひつようになります。さらに、これからも大阪府の南部が発展はってんするためには、人口が増えていくことも考えなくてはなりません。

荒山公園・梅林

 そこで、大阪府は、吹田市すいたし千里せんりニュータウンに続き、ここ泉北丘陵地に新しい大きな街をつくることにしたのです。計画が始まったのは、昭和36年(1961)のことです。石津川に流れこむ和田川などの川筋かわすじには、古くからの村があり人たちがらしていたので、この川筋の谷間たにまをのぞく泉ヶ丘いずみがおか地区ちくとが地区ちく光明こうみょういけ地区ちくの三つの地区の開発が決まりました。堺市内の三地区会わせて15、11平方キロメートル(東京ドーム323個分)の面積めんせきで、人口は18万人を考えていました。そこに鉄道、道路、学校、公園、商店など生活にかかわる必要な施設しせつを計画しています。

泉ヶ丘駅前

 そして、昭和42年(1967)12月に宮山みややまだい地区から入居にゅうきょが始まりました。その後、プールやビッグ・バン、ビッグ・アイなどの施設ができていきますが、人口は16万5千人をピークにり続けて、現在げんざいは12万人ほどの人たちが、暮らしています。

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